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この思いは限りなく続く? [その他鉄道ネタいろいろ]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:「あと○年早く生まれていれば…」「あと○年遅く生まれていれば…」と思うこと、ある?

これもこの年齢になるといろいろ出てきます。
それも、「あと○年遅く生まれていたら」よりも「あと○年早く生まれていたら」と悔やまれることの方が多いです。
例えば「あと5~6年早く生まれていたら就活で苦労しなかったんじゃないか?」とか「あと○年早く生まれていればあの番組をリアルタイムで楽しめたのに」など・・・

そして、私の好きな鉄道はそんな思いを一番抱いている分野です。
「あと10~20年早く生まれていたら、国鉄時代の名列車や名車両をもっと乗車したり撮影できたのに・・・」とか「もっと早く生まれていたら今は亡き路面電車やローカル線にたくさん乗れたのに・・・」などと、挙げていったらきりがありません。
特に、こんな記事を見てしまうと、よけいにその思いを刺激されてしまいます。

「みどり」「しおじ」…在来線ホームに謎の暗号? 徳山駅に残る新幹線開業前の痕跡 | 乗りものニュース
https://trafficnews.jp/post/87930

この記事に出てくる列車名を見ているだけで、昭和40年代の山陽本線優等列車全盛期をリアルタイムで知らない世代としては、もっと早く生まれてこういった列車に乗りたかったという気持ちにさせられます。
ホームにうっすら残る懐かしの列車名の乗車位置案内ということでいえば、私も10年近く前に金沢駅で「白鳥」「かがやき」「スーパー雷鳥」「しらゆき」「立山」などと書かれた白いペイントの文字が所々消えながらも残っているのを見て懐かしく思ったのを思い出しますが、こういった一つの時代を象徴するような案内文字などをどこかで保存できないものなんでしょうか。

まあ、「あと○年早く生まれていれば」や「あと○年遅く生まれていたら」といった思いは、どんな世界に対しても多かれ少なかれ感じることなんでしょうね。










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「最後」というか・・・ [その他鉄道ネタいろいろ]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:最後にディズニーランドorシー行ったのはいつ?

何やら、昨日の夕方や今朝の情報番組などで、ディズニーシーの新アトラクションが話題になっていたとかいないとか、風の噂に聞きましたが・・・
ディズニー好きの皆さんには大変失礼ながら、正直私はディズニーにはほとんど関心がありません。
そんなわけで、ディズニーランドには一回だけ言ったものの、ディズニーシーには一度も行ったことがありません。
その一回だけのディズニーランドも、もう34年も前の話です。
あの頃は京葉線は未開業で、当然京葉線舞浜駅からのディズニーリゾートライン(モノレール)もまだありませんでした。
京葉線開業前はディズニーランドへ電車利用で行こうとすれば、営団地下鉄(現 東京メトロ)東西線の浦安駅で下車し、駅前からバスに15分ほど乗って向かうのが一般的で、東西線の車内放送でも浦安到着直前に「東京ディズニーランド下車駅です」という案内がありました。
この時は、家族(妹)がディズニーランドに以前から行きたがっていたのでそれに一緒についていったという感じで、私個人は特にディズニーには関心がないこともあり、正直この日どんなアトラクションに乗ったのかほとんど記憶に残っていません。
ただ、ランド内を周回する「ウエスタンリバー鉄道」という、蒸気機関車が客車を牽引して走るアトラクションだけは乗りたいと思っていたので、これに乗れて楽しかったのだけは今も覚えています。
行った日はちょうどお盆休みの期間中だったので、炎天下ほとんど陽射しを遮るもののない中でアトラクションに乗るために相当長時間並んだのを覚えています。
夜のパレードも見たのだろうとは思いますが、これもほとんど覚えていません。

その後京葉線が開業し、私も大学への通学その他で京葉線に乗るたびにシンデレラ城を車窓から眺めることは多かったけれど、舞浜駅をディズニーランドへ行くために利用したことはなく、今後もない可能性が高いです。
大学を卒業して新卒で入社した会社では、福利厚生の一環で健保組合から、窓口で提示するとディズニーリゾートの入園が割引になるカードが社員とその家族に支給されていましたが、これも私は使うことはありませんでした。

「ディズニーリゾートライン」には一度だけ乗ったことはありますが、ディズニーに行くためではなくあくまでも「乗りつぶし」のための乗車でした。
「ディズニーリゾートライン」は一方通行の環状線のため、舞浜駅から乗って途中のどこかの駅で一度下車し、次の電車で残りの区間を乗って終わりという乗り方をしましたが、「乗り鉄」目的で乗るには車内の雰囲気はアウェー感満点で、舞浜駅に戻って京葉線に乗り換えた時には何となくほっとするものを感じたのを覚えています。
舞浜駅といえば、私個人としてはかつて各地からディズニーリゾートへ向かう団体客を載せた臨時列車を撮影するために何度も通ったのを思い出します。
だいたい10年ほど前のことですが、当時は仙台・福島方面からの583系、新潟方面からの485系、北陸方面からの489系、大糸線方面からの183・189系など、日によっていろいろな車両がやってきて楽しかった思い出がありますが、中でも青森・秋田方面からほぼ月1回くらいのペースでやってくる秋田車両センターの583系による「わくわくドリーム」号は舞浜駅以外の場所も含めて何度も撮影しました。
当時は京葉線や乗り入れてくる武蔵野線の車両も201系・205系・209系・E331系・E233系とバラエティーに富んでいて、臨時列車とともにこれらの車両を、ホーム東京寄り先端から葛西臨海公園の観覧車をバックに撮影するのが好きでした。
今や、各地からの臨時列車に使用されていた車両たちも姿を消し、ディズニーリゾートに向けて団体臨時列車が走るということも少なくなったんでしょうね・・・

あれっ、いつの間にかすっかり「鐵」話になっちゃいましたね(苦笑)

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あの頃「はやぶさ」はブルートレインでした [その他鉄道ネタいろいろ]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:「映画館で好きな映画を上映してあげる」と言われたらリクエストするタイトル

もともとあまり映画を見に行く習慣がないので、見た映画の本数もそう多くはないけれど、それでももう一度見たい映画や見逃したのでぜひ見たい映画、時代的にリアルタイムで見られなかった映画など、見たい映画はそれなりにあります。
そうした中で、できるならもう一回映画館で見たい映画を選ぶなら・・・
それは、1982年制作の中山節夫監督「ブルートレインひとり旅」という作品です。
過去、鉄道や列車が作品中に登場する映画はいくつもありますが、この作品の名前を知らないという方も多いかもしれません。
なぜなら、この作品が上映されたのは学校や公民館、市民会館などでの上映会が中心で、一般の映画館での上映実績はほとんどないそうです。私もこの映画を見たのは、住んでいる市の広報紙に上映会の告知が掲載されているのを母親が見つけて教えてくれたことがきっかけでした。
また、現在に至るまでビデオ化やDVD化もされていないそうなので、今となってはなかなか見る機会のない映画でもあります。

この映画のあらすじを簡単に記すと、主人公で鉄道好きの少年たけしは、いつも両親から勉強のできる兄貴と比べられる事に反発して、親に内緒で憧れの西鹿児島(現在の鹿児島中央)行き寝台特急「はやぶさ」に乗り込みます。車内では様々な事情を抱えて「はやぶさ」に乗っている他の子供や乗客などとの出会いを経験しながら西鹿児島へ向かいます。
一方、たけしが家出をしたことを知ったたけしの父親は、東海道新幹線とブルートレイン「あさかぜ」、さらに山陽新幹線を乗り継いで「はやぶさ」を追います。そして、「はやぶさ」が九州に上陸してしばらく走ったところで・・・というものです。

なぜ私がこの作品をもう一度見たいかといえば、映画自体のストーリーもさることながら、鉄道ファンでありブルートレインファンである私からすれば、作品全体を通して描かれている1980年代初頭頃のブルートレインの車内風景や鉄道風景をもう一度味わいたいからです。
作品中には個室A寝台車オロネ25や食堂車オシ24の車内の映像なども登場し、また「はやぶさ」のたどる沿線各所で出会う国鉄車両たちもふんだんに登場するなど、「はやぶさ」だけでなく1980年代初頭の国鉄列車の貴重な映像資料としてもかなり価値のあるものだと思います。
また、たけしの乗った「はやぶさ」を追うために、新幹線と「あさかぜ」を名古屋で乗り継ぎ、さらに広島で「あさかぜ」から新幹線に乗り継いで博多で「はやぶさ」に追いつくという、まるで十津川警部シリーズのトラベルミステリーに出てきそうな展開も、子供を主人公に据えた映画としてはなかなか面白いです。
この作品が制作された直後に映画を見た時にはそんなことは知りませんでしたが、実はこの映画は昭和50年代中頃のブルートレインブームを受けて、国鉄本体はもちろん当時の国鉄に存在した各労働組合の協力も得て撮影が行われたということです。そのため、電気機関車の運転台でのシーンや通常ではなかなか許可の下りないアングルでの撮影が行われたシーンもあり、それがより当時の鉄道の記録映画としての価値を高めているといえるでしょう。

先ほども書いたとおり、この作品はビデオ・DVD化がされていないので、今では見る機会もなかなかありませんが、何度も書いたとおり1980年代のブルートレインや国鉄列車の映像記録としても大変価値のある作品なので、どこかの鉄道系の博物館などでの上映やDVD化などをぜひしてほしいですし、本格的な映画館の大きなスクリーンでの上映会もぜひしてほしいものです。
そして、視覚障害者の鉄道ファンとしては、その際にはぜひUDキャスト(スマートフォンなどを使って音声ガイドを聴きながら映画などを楽しめるシステム)への対応もお願いしたいところです。

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お札・硬貨の識別のしかた [視覚障碍者としてのあれこれ]

こんばんは、gonanaです。
私は中途で視覚障害者になり、日常生活の中でこれまで普通にできていたことが途端に困難になってしまう場面が多数生じました。例えば、お店のレジなどでお金を払うために財布や小銭入れからお札や硬貨を出す時、手に取ったお札や硬貨がいくらなのかを確認することもその一つです。
では、私たち視覚障害者が現金を扱うとき、どうやって硬貨や紙幣を識別しているのでしょうか。
まず硬貨ですが、これはコインの大きさや表面・裏面・縁の手触りなどで比較的容易に識別できます。例えば、5円玉と50円玉は穴が開いているという点では共通していますが、50円玉のほうにはコインの外縁にギザギザが付いていることや、大きさの微妙な差などで識別できます。また10円玉と100円玉も縁のギザギザの有無や大きさ、表面・裏面の刻印の違いなどで識別できます。
次に紙幣ですが、お札の肖像画のある面を表にしたとき、左右下の部分に横棒(1000円札)、点が縦に3つ(点字の「に」((2000円札)、八角形(5000円札)、L字型(10000円札)といったお札の種類を示す凹凸の識別マークがあり、触角での識別が可能なようになっています。
しかし、私はこの識別方法を知って実際にお札を触ってみても、正直なところなかなか識別マークには気づきにくく、自分にはこの方法は向かないと感じました。
そこで、もう一つの識別方法がお札の大きさです。
お札を横長にした時、縦の寸法は4種類 すべて76mmで揃っていますが、横幅は10000円札の160mmから1000円札の150mmまで、金額の大きい順に横幅が2mmまたは4mm刻みで小さくなっていて、お札を重ねているときは、左右どちらかの端をそろえれば横幅の差でお札の種類を識別できます。
しかし、小銭入れに小銭が大量に入っていると、その中から目的の金額の小銭を素早く取り出すのはかなり難しいですし、手渡されたり財布に入っていたりするお札が単一の種類しかない場合、大きさの比較による識別ができないため、お札の種類を事前に把握しておかないと金額の確認がしずらいこともあります。
そのようなときに備えて、ポケットが複数あってお札や硬貨の種類ごとに入れるポケットを分けられるようになっている小銭入れやコインケース、財布があり、便利グッズとして、お札や硬貨の大きさを測る定規も販売されています。
さて、数年後には2000円札以外の紙幣のデザインが変わることが発表されていますが、これが視覚によらない紙幣の識別のしやすさにどう影響を与えるのか、注目されるところです。
また、今後は日本でもスマホ決済などのキャッシュレス社会への移行が本格化してくるので、将来的には紙幣や硬貨とも無縁の生活も当たり前になるのでしょう。
そのような大きな変化がすぐそこまで迫ってきてはいますが、ぜひとも障害のあるなしを問わず、誰でもが使いやすいシステムになってくれることを願ってやみません。
タグ:紙幣 硬貨
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ニューヨークへ行きたいか!? [ノンジャンル]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:復活して欲しい番組

私も50歳近くなり、しかも少なくとも小中学生頃までは自他ともに認める典型的な「テレビっ子」だったので、復活、またはリメイク、あるいは当時の番組の再放送を見たい(聴きたい)テレビやラジオの番組はたくさんあり、とても一つや二つに絞れません。
ということで、このお題での投稿はこれから何度もあると思います。

今回取り上げるのは、日本テレビでかつて放送されていた「アメリカ横断ウルトラクイズ」です。記事タイトルにもした「ニューヨークへ行きたいか!?」の名文句でもおなじみのあの大型クイズ番組です。
本来今回取り上げようと思っていたのは別の番組なんですが、実は、こんなコラムが昨日ネットに出ていたのを見つけたので「ウルトラクイズ」を取り上げることにしました。

「アメリカ横断ウルトラクイズ」とは何だったのか クイズ王の夢に火がついた「かまぼこ板の早押し機」再び(withnews) - Yahoo!ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190711-00000003-withnews-ent

コラムを読むうちに「ウルトラクイズ」のいろいろな場面を思い出しました。
私自身は、「ウルトラクイズ」は毎回必ず見ていたというわけではありませんでしたが、たまたまチャンネルを合わせた時にやっていればついつい見入ってしまった思い出があります。
子供の頃はこの番組の中にある人間ドラマの要素にはあまり気づきませんでしたが、今思い出してみると確かに単に知識を競う番組ではなく、何か対策のドラマ化映画を見るような感覚を覚える番組だったのかなという気がします。
私は子供の頃からクイズ番組が大好きで、特に夏休みなどに「子ども大会」を放送する番組には一度出てみたかった思い出がありますが、「ウルトラクイズ」の出場者、中でも決勝まで駒を進めるような人たちはやはり自分とは別格の知識の持ち主という感じがしました。
今では「ウルトラクイズ」のようなスケールの大きなテレビ番組もなかなか見かけなくなりましたし、視聴者参加型のクイズ番組も少なくなってしまいましたが、またいつの日か「ウルトラクイズ」のようなスケールの大きなクイズ番組をぜひやってほしいものです。

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こんな歴史もあったのね [ノンジャンル]

こんばんは、gonanaです。
昨日の記事では、私の生まれた東京都大田区南六郷という町のことを書かせていただきましたが、最近ネットに大田区が生まれる前からの歴史に関する興味深い記事が出ていました。
詳しくは下記のリンクからどうぞ。

かつて大田区の中心は蒲田でなく「大森」だった (東洋経済オンライン)
https://toyokeizai.net/articles/-/290604

私は、大田区がかつての大森区と鎌田区が統合して生まれた区だというのは知っていましたが、まさか市制施行の計画があったとは知りませんでした。
どのような経緯でそのような動きが出てきたのかはわかりませんが、もし「大田市」が生まれていたら都内の他の特別区も追随することになったのかどうか、興味深いところです。また、「大田市」といえば島根県に今もありますが、島根県大田市の市制施行が1954年1月だそうで、場合によっては東京の「大田市」とどちらが早く市制施行していたのかということにもあれこれ想像をめぐらしたくなります。もし東京都大田市が成立していたら、現在の島根県大田市に当たる市はどんな名前になったのでしょうか。
そしてこの記事の本題である「大森」ですが、私はここまで歴史ある街だというのは正直知りませんでした。
実は大森駅やその付近は国鉄・JRや京急でそれこそ数えきれないくらい通ってはいるものの、大森駅などで下車したことがこれまで全くありませんでした。もちろん、古くからそれなりの賑わいのある街なんだろうという漠然としたイメージはあったものの、記事にあるような繁栄の歴史があることは今回初めて知りました。

私が生まれた大田区南六郷の、国鉄・JRでの最寄り駅は京浜東北線の蒲田駅です。蒲田駅は京浜東北線の他に東急目蒲線(現在の東急多摩川線)と池上線も発着し、そこから少し離れたところに京急蒲田駅もあるターミナルで、国鉄側・東急側ともに駅ビルがあったり、京浜東北線ではかつて鎌田電車区があった関係で始発・終着列車も多いなど、鎌田は大田区の中心というイメージが幼い頃から染みついていたような気がします。
そのため、今回の記事でかつては大森が現在の大田区にあたる地域の中心だったということに驚かされました。
今でこそ、すっかり鎌田のほうが街の規模としては大きくなったような感じですが、そういった明治期以来の歴史を踏まえて考えると、街の盛衰の移り変わりというのもかなり興味深いものがありますね。
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やっぱりふるさとはいいもんだ [ノンジャンル]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:育った街はどんなところ?

私が生まれてから3歳まで住んでいたのが東京都大田区南六郷というところ。
3~4歳で同じ都内の清瀬市に引っ越し、さらに6歳で今も住んでいる埼玉県某市に引っ越した後も、父方の祖父母は引き続き大田区に住んでいたので、大学時代まで結構頻繁に里帰り(というほどのものでもないけれど)していたので、今も「故郷」という意識のある街です。
もっとも「故郷」といってももう祖父母とも亡くなって久しく、里帰りして何かをするあてもないけれど、目が見えていたころは時々フラッといってみたりしたこともあります。

この東京都大田区南六郷という場所は一的には羽田空港の近くで、今は運転系統がどうなっているのか不明ですが、少なくとも羽田空港の旅客ターミナルが現在の位置に移るまでは生家最寄りのバス停には鎌田駅と羽田空港の旅客ターミナルを結ぶバスが止まっていました。
生家の最寄り駅は、このブログでも何回か触れている通り京急の雑色(ぞうしき)駅。
昔も今も、普通電車しか停車しない駅で、今でこそ高架駅となりバリアフリー設備も完備した「今どき」の駅になっていますが、高架か前は典型的なターミナル駅近くの各停しか止まらない小駅といった雰囲気の駅で、確か私が小学校低学年くらいまでは上下線間の移動を地下道ではなく改札内の構内踏切で行っていました。
この雑色駅、昨年秋に京急が一部の駅の駅名改称案を公募した際にはその駅名が消えてしまうのではないかという懸念がありましたが、結局改称とはならず、明治時代の駅開設以来の駅名が令和時代にも引き継がれることに鳴りました。どうやら雑色という駅名を変えることに対しては反対という意見が多かったようで、これもこの駅名に馴染んできた者としてはうれしい限りです。

雑色駅周辺には、京急の線路や国道15号(第一京浜)を挟んで結構広範囲に2つの商店街が広がっています。
私が幼い頃、母や祖母の買い物についてきて何度も行った(と思われる)商店が残る一方、今はコンビニやスーパー、ファストフードなどもあり、たいていのものはここで調達できそうな、非常に便利な商店街です。
最近の状況はよくわからず、もしかすると現状はどちらの商店街もご多分に漏れず・・・という状況なのかもしれませんが、できればいつまでも賑わいが失われないでいてほしいものです。

商店街を抜けて生家のあったところへ向かう途中の街並みは、子供の頃は住宅や小規模なアパートに混じって「ものづくりの街」でもある大田区を象徴するような小さな町工場がところどころにあり、道を歩いていると開け放った正面の扉から何かを溶接か切削していると思われる青白い光が見えたり大きな音が聞こえてきたりするのも日常の風景でした。
今ではそういった町工場もほとんどなくなり、一部の家が新しく建て替えられたりマンションに変わったりしているようですが、私が目が見えなくなる少し前に最後に訪れた時にはそれほど大きな変化はなく見え、生家も持ち主は変わっていますが昔住んでいた当時とあまり変わらない外観でした。

生家のあったところから数分歩くと、多摩川(地元では六郷川とも呼びますが)の土手に出ます。この土手や河川敷から対岸を見ると、そこはもう川崎の工業地帯です。
多摩川の河川敷は近くに住む人に撮っては野球やサッカー、ゴルフの練習をしたり子供を思いっきり遊ばせたりするには最適な場所で、私もここでよく遊んだ思い出があります。
河口側に背を向けて遠くを見れば、京急と国鉄・JRの多摩川に架かる鉄橋が見えます。幼い頃から電車好きの私としては、多くの電車を短時間に見るには絶好のスポットだったはずですが、子供の頃はなぜか鉄橋のそばに行ったことは一度もありませんでした。
今となってはその理由を知るすべもありませんが、今思うとかなり悔やまれる思い出です。

この大田区南六郷、私が住んだのはまだあまり物心もつかないわずか3~4年のことでしたが、ある意味今住んでいる某市以上に思い入れのある街です。
単に懐かしい思い出のある街というだけでなく、現在でもあちこちへ出かける際の交通の便も非常によく、仮にもし引っ越すなら引越先としてぜひ候補に入れたい街です。
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なるほど、こういうやり方もあるのか! [鉄道ニュース]

こんばんは、gonanaです。
先日、2005年から活躍していた201系が運用を終え、1961年の101系配置以来約60年にわたる「オレンジの環状線」の歴史にピリオドが打たれたJR大阪環状線ですが、その環状線の大阪駅ホームに面白い乗車位置案内が最近登場したそうです。
詳しくは、下記のリンクの記事をどうぞ。

奈良は鹿、和歌山はミカン、関空は飛行機 JR大阪駅の乗車位置案内がわかりやすいと好評/ライフ/社会総合/デイリースポーツ online
https://www.daily.co.jp/society/life/2019/07/11/0012505408.shtml

なるほど、これはかなりわかりやすそうですね!
肝心の乗車位置イラストがどんなものなのか、私は写真で見ることができないのは残念ですが、記事タイトルにもあるように奈良は鹿、和歌山はミカン、関空は飛行機と、日本人も外国人も行き先を容易にイメージしやすいイラストで表現するというのはありそうでなかったアイデアでしょうね。
記事の中では紀州路快速の乗車位置イラストがみかんなのに違和感があるような感じですが、これはおそらく大阪駅の環状線ホームに停車する和歌山方面行列車は基本的に「紀州路快速」しかなく、白浜方面へ向かう「くろしお」はそもそも大阪駅事態を経由しないから、というのが理由ではないでしょうか。
パンダのイラストの乗車位置案内を設けるなら、むしろ京都・新大阪・天王寺などの「くろしお」乗車位置に設けた方がよりふさわしいかもしれません。
いずれにしても、こうしたイラストやシンボルマークを使った乗車位置案内は、大阪駅だけでなく全国の多くの駅で採用されてよい案内方法だと思います。
○○方面、あるいは△△線はこのイラスト、というように路線内や地域で統一したデザインにし、行き先や路線名が直感的にわかりやすい絵柄にすれば、外国人利用客やその地域が初めてという人にもわかりやすいでしょうし、イラストのセンスが良ければ路線や地域のイメージアップにもつながるかもしれません。
個人的には、埼京線と湘南新宿ラインが線路を共有する池袋ー大崎間などにはあると便利なのではないかと思いますが、どうでしょうか?
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1年間限定「弟」との思い出 [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:しばらく会ってないけど、今どうしてるか知りたい人、いる?

私も50歳近くなり、最近会ってないけど今どうしているか知りたい人というのもそれなりに何人もいます。
以前の記事にも書きました、おもちゃ図書館のボランティア時代に一緒にボランティアをしていた同じ大学のO先輩もその一人ですが、今回は小学6年生の時に出会ったある下級生について書きたいと思います。

小学6年生の時、私の通っていた小学校ではある新しい試みが行われることになりました。
それは、高学年の生徒と低学年の生徒が、日々の学校生活の中で一緒に遊んだり活動したりする時間を設け、お互いの交流を図ろうというものでした。どうやら生徒の友達関係が同じクラスや学年だけに固まりがちな状況を変えたいという学校側の狙いがあったのでしょう。
この試みは、確か「なかよしクラブ」というような名前で呼ばれていたような記憶があります。6年生のクラスは1年生のクラスと、5年生のクラスは2年生のクラスと、4年生のクラスは3年生のクラスと、それぞれクラス単位で組を作り、その中で生徒一人一人に男子同士、女子同士で上級生と下級生のペアを組んで活動するというものでした。
主な内容は、曜日を決めて午前中の長めの休み時間(「行間休み」と呼ぶ20分の休み時間)に一緒の組になったクラス同士で校庭で遊ぶ時間を設けたり、合同で学習発表会などの学級活動をしたりするものでした。
私のいた6年6組は1年6組と姉妹(兄弟)関係を組むことになり、その中で私はK君という男子とペアを組むことになりました。K君は小さくてかわいくて、弟のいない私にとってはまるで弟が生まれたような気分でした。
そして「なかよしクラブ」の活動が始まり、K君ともよく顔を合わせるようになりました。最初のうちはお互いうまく打ち解けられずにいましたが、やがてお互いのことがわかってくるにつれ仲よく遊べるようになり、私は本当の弟のような気分で彼に接するようになりました。時には「なかよしクラブ」の時間以外にもK君と遊んだりもして、いろいろ楽しい思い出ができました。

しかし、そんな楽しい日々も私達6年生の小学校卒業とともに終わりを迎えようとしていました。そこで、6年6組と1年6組の「なかよしクラブ」活動の最後のイベントとして、私達6年生が最後の家庭科の授業としてカレーライスを作り、それを1年6組の子と一緒に食べる食事会が行われることになりました。
食事会は、卒業式1週間前の土曜日に行われました。まず私達6年生がカレーを作り、出来上がったら1年6組のみんなと食べるというものです。
私達の作ったカレーライス自体は市販のカレールーや肉、野菜、米を使って教科書に書いてあるレシピ通りに作ったものでしたが、プリンやゼリー用の型にご飯を入れて型を取り、そのご飯にルーをかけて皿に盛り付けました。
出来上がったところでちょうど土曜日の授業が終わる時間になり、1年6組のみんなが家庭科室にやってきました。家庭科室のテーブルに数組ずつペアで座り、食事会の始まりです。もちろん私はK君と並んで座ります。
カレーを食べながら、この1年間のいろいろな思い出を語り合ったり、お互いの学校生活のことなど、いろいろと話の花が咲き、とても楽しい食事会になりました。

そして、卒業式当日を迎えました。式を前にして、私達6年6組と1年6組の「なかよしクラブ」最後の顔合わせが開かれました。1年6組の担任の先生と代表の生徒からのお祝いの言葉と、それに対する6年6組代表の感謝の言葉があり、その後1年生のみんなからそれぞれのペアの相方となる私たちに似顔絵と卒業のお祝いのメッセージのプレゼントがありました。もちろんK君からも、実物よりもちょっとかっこよく(?)描いてくれた似顔絵と、心のこもった直筆のメッセージをもらいました。たった1年間とはいえ、ある意味本当の弟以上に仲良くしてくれたK君ともお別れだと思うと、卒業とはまた別の感慨がこみ上げてきてグッとくるものがありました。

卒業後も、私の家とK君の家が近かったこともあり、K君とは数回顔を合わせたり遊んだりする機会もありましたが、ほどなくしてK君の一家が関西(確か兵庫県の西宮だったような…)に引っ越すことになってしまいました。その後も2~3年ほど年賀状のやり取りをしたものの、いつの間にかどちらからともなく音信不通になってしまい、今K君がどこで何をしているのか、全くわかりません。
今や私もK君もともに40歳台になり、あれから30年超の歳月を経てお互い「いい歳」になりました。K君にしてみれば、私のことなどすっかり忘却の彼方に追いやってしまったかもしれませんが、もし機会があるなら「なかよしクラブ」の思い出やお互いのこれまでの話を肴に酒でも酌み交わせたら、などと考えてしまいます。

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自らの手で何かを生み出すこと [ノンジャンル]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:「あなたには、この能力が眠っています」言われて嬉しい能力は?

一つの物事を自らの手で一から(ゼロから?)新たに生み出し、しかもそれを最も効果的に多くの人に向けて表現できる能力。
創造力というか企画力というか、そんな能力が眠っていたとしたらかなり嬉しいです。

実は、昨年11月から先月中旬まで、私は今務めている会社で新規事業の企画立案や提案を行う部署に配属されていました。
子供の頃から、クリエイティブな才能のない私は何かを自分の力で企画したり生み出したりということが苦手なので、この所属変更にはかなり不安を感じていました。
もちろん、配属されてからは何とか事業の企画をひねり出そうとはしたものの、案の定一つも新規事業の案を出せないままに終わりました。
先月中旬から、ある意味自分に合っていると思われる今の部署に移り(正確には7か月ぶりの復帰ですが)、ほっとしている所です。

仕事の幅を広げるということから言えば、新たな事業の企画や業務改善のアイデアの提案ができるようになることも必要なスキルだとは思いますが、やはり自分にクリエイティブな才能があったらもっと別の分野でそういったものを発揮できる場が合っているのかもしれないと思っています。
例えば、大作でなくていいからちょっとした小説のようなものでもブログにアップできるようになれたら楽しいかな、などとも思ったりします。
実は小学5年生の時、国語の授業の一環で小説らしきものを創作で書いたことがあります。
創作した物語の内容は、強盗犯という無実の罪をきせられた3人の男たちが、疑いを晴らそうと自分たちで犯人を追い、ついに逮捕に追い込むというストーリーでした。
でもその作品の出来たるや、ろくに小説など読んだこともない小学生の書いたものだということを差し引いても恥ずかしいものでした。
その過去があるので、やはり多くの人に読まれる小説やエッセイを書ける人には最大限の経緯を感じますし、今はどうなのかはわかりませんが一時流行したブログ上での小説執筆などは、もし才能があるのなら挑戦してみたいものです。
いつかはせめて自己満足ぐらいはできる小説、書いてみたいな・・・

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