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2003年9月の乗り鉄思い出しの記③ 可部線非電化区間に最初で最後の乗車編 [鉄活動レポート]

こんばんは、gonanaです。
前回・前々回に続き、2003年9月の岡山・広島方面への乗り鉄旅の思い出です。

213系「マリンライナー」のパノラマグリーン車と高松港ー宇野港間のフェリーで高松へ往復した翌日の2003年9月13日は、朝のうちに宿泊地の岡山市内を走る岡山電軌の路面電車全線に初乗車した後、岡山駅から福山駅まで117系の快速「サンライナー」、福山からは115系の山陽線普通列車と乗り継ぎ、昼を少し過ぎた頃に広島駅に到着しました。
広島到着後の午後は、一日乗車券を購入して広島電鉄の軌道線と宮島線を乗り回して過ごしました。
翌9月14日は、朝(確か)8時半少し前に広島駅から105系電車の可部線可部行で出発しました。可部線自体もまだ発乗車の路線でしたが、今回の目的はあくまでも可部から先の区間でした。
可部線は現在、山陽本線の横川(よこがわ)駅から分岐して安芸亀山駅までを結ぶ路線ですが、かつてはその先の三段峡駅まで路線が伸びていて、電化されている可部までは電車、その先三段峡までは非電化のため気動車で運転が行われていました。
そして可部ー三段峡間は赤字路線のため2003年12月1日に廃止されることになったので、廃止前に乗っておこうと出かけたもので、この区間の乗車はこの時の乗り鉄旅の大きな目的の一つでもありました。
9時杉に可部駅に到着し、ここで9時半過ぎに発車する三段峡行のキハ40・47系に乗り換えます。当日が日曜日だったこともあり、私と同じように可部ー三段峡間のお別れ乗車に向かおうという人も多く、車内はほとんどの座席が埋まり立つ人も数人いる状況になりましたが、発車が近づいた頃に流れた車内放送で車内が少々ざわつくことになりました。
それはこの日の早朝、山陽新幹線で信号トラブルがあり一部区間が一時運転を見合わせた影響で新幹線にダイヤ乱れが発生し、その影響で遅延した新幹線にこの三段峡行で目的地へ向かう乗客が乗っていたため、その乗客が広島で乗り継ぐ可部止まりの到着を待って発車するというものでした。
広島近郊区間ということで運転本数の比較的多い可部までと対照的に、その先の非電化区間は列車本数も少ないのでこのような救済措置が取られたのだと思いますが、すでに乗車済みのこちらは特にすることもなく待たされることになり、また終点三段峡駅に滞在できる時間が大幅に減ってしまうのも気になってきました。
発車待ちがかかっている間にも広島駅からの電車が着くたびに三段峡行に乗る人は増え、車内はかなりの混雑になってきました。そんな中でやっと新幹線からの乗り継ぎ客が到着したようで、三段峡行は約1時間ほど遅れて可部駅を発射しました。
可部から(おそらく)1じかんちょっとで終点の三段峡駅に到着し、可部線の全線踏破と廃止となる区間の乗車という目的は達成できました。
しかし、定時運転ならば三段峡駅に到着後、折り返しの可部行に乗車するまでの約30分ほどの間に駅の周囲を少しぶらつくことができるはずだったのが、約1時間遅れの到着となったため、可部行は折り返し準備ができ次第すぐ発車ということになり、駅前散歩どころか帰りの乗車券を購入することも同じように切符を買おうとする乗客が多くてままならず、滞在時間わずか3~4分でもう多分来ることはないであろう三段峡駅を後にすることになってしまいました。
折り返しの可部行も、おそらく先ほど乗った三段峡行にも乗っていたと思われる、お別れ乗車の鉄道ファンで大混雑でした。私と同じように三段峡駅からの乗車券を持っていない乗客も多かったようで、車掌から運賃は下車駅で精算してほしいという放送がありました。
こうしてドタバタのうちに廃止区間の可部ー三段峡間の往復を終えて可部まで戻ってきました。正直なところ、列車の遅れと混雑(私はボックスシートに座れましたが)のせいかあまり落ち着いて車窓を眺められず、せっかくの最初で最後の乗車なのに車窓風景の記憶があまり残っていないという、何とももったいない結果になってしまったのが悔やまれます。
私がお別れ乗車してから2か月半後に可部から先の区間が廃止された可部線でしたが、2017年3月には途中の安芸亀山駅までの区間が電化の上で復活しました。可部ー安芸亀山間の復活後の路線にはまだ乗ったことがないので、ぜひこちらも踏破しに行きたいところです。

可部から再び105系に乗って広島駅まで戻った後は呉線を全線踏破して三原まで行き、山陽線で広島駅へ戻ってこの日は終了となりました。
翌15日は、朝の山陽新幹線700系「ひかりレールスター」で新大阪へ向かい、その後先日も記事にした阪神タイガース優勝の夜を迎えるのでした。

以上、16年前の乗り鉄の記憶をたどりながら記事にしてみました。
今となっては記憶があいまいな部分も多いですが、思い出してみるとやはり今は乗ることのできない列車や車両、路線にはこの時乗っておいてよかったと思っています。
しばらく岡山や広島あたりへの鉄道旅もご無沙汰ですが、またぜひ乗り鉄氏に行きたいものです。
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2003年9月の乗り鉄思い出しの記② マリンライナー&フェリーで高松往復編 [鉄活動レポート]

こんばんは、gonanaです。
前回からの続きで、2003年9月に岡山・広島方面へ乗り鉄旅に出かけた時の思い出記です。

2003年9月12日、前夜東京駅から乗車したブルートレイン「出雲」を9:20過ぎに到着した米子で下車し、30分ちょっと後に米子を発射する381系の伯備線特急「やくも」で昼前に岡山駅に到着しました。
岡山に到着後は、そのまま快速「マリンライナー」で瀬戸大橋を渡り高松へ向かうことにしました。
私にとっては5年ぶり2度目の四国上陸ですが、今回は「マリンライナー」に乗ることが高松へ向かう目的でした。
「マリンライナー」は1988年4月の瀬戸大橋線開業以来、パノラマグリーン車クロ212形を組み込んだ213系電車により運転されてきましたが、2003年10月1日のダイヤ改正から、現在も「マリンライナー」で活躍しているJR四国5000系とJR西日本223系の併結による編成に置き換えられることになりました。
213系普通車の方は岡山周辺各線のローカル運用に転用されるものの、パノラマグリーン車クロ212形は活躍の場を失い引退することになりました。
クロ212は運転室越しに全面展望が楽しめるほか、側面の窓も大きく眺望に優れた構造になっており、一度乗ってみたい車両でした。
そこで、引退前にぜひ乗っておこうと、乗り鉄旅の行程に組み込むことにしました。

私が乗車したのは、岡山駅を12:40前後に発車する「マリンライナー」(号数は忘れてしまいました)でした。
発車10分ほど前に岡山駅の「マリンライナー」発車ホームに行くと、すでに213系が入線していて、もちろん目的のクロ212に乗車します。
クロ212は白い鋼製車体に在籍する5両それぞれに異なる色のストライプの入った塗装が特徴でしたが、乗車した車両は何かのキャンペーンか商品とタイアップしたと思われる(具体的な内容は覚えていませんが)青緑色ベースの特別塗装となっていました。
「マリンライナー」のグリーン車(室)は指定席(別に普通車指定席もあり)なので、もちろん事前に最前列(運転室のすぐ後)のグリーン県を確保していました。
普通・快速列車のグリーン車といえば、首都圏各線のそれは昼間でも結構乗車率が高いですが、平日のお昼時の「マリンライナー」のグリーン車は観光客もそれほど多いわけでもないので空いているだろうと思っていましたが、実際には8割程度の座席が埋まった状態で岡山駅を発射しました。
岡山と坂出・高松の間は乗車時間もさほど長くありませんが、やはりゆったりした座席への着席が保証されているという点で、「マリンライナー」にも首都圏のグリーン車と同じような需要がかなりあるのでしょう。
指定された座席は運転士の真後ろの席のため、落ち着いてゆっくり前面展望を楽しむには若干の難がありましたが、それでも岡山駅で購入した駅弁を食べながらの前面展望は楽しいものでした。瀬戸大橋走行中は、隣の席が空いていたのを幸い、海の眺望も存分に味わうことができました。
そうこうしているうちに四国に上陸し、岡山から1時間足らずであっという間に高松駅に到着しました。
クロ212は車両自体の乗り心地も前面・車窓からの眺望も素晴らしく、製造後わずか14~15年で廃車されてしまったのは何とももったいない限りです。もし今だったら、全車とは言わないまでも一部は何らかの観光列車に転用されていたかもしれず、こんなところにも鉄道車両の運命を感じます。

「マリンライナー」で高松駅に着いたのは13:30過ぎでした。
先ほども書いた通り今回高松へ向かったのはクロ212形に乗るのが目的のため、高松では特に何も予定はありませんでした。そのため今回は高松到着後すぐにとんぼ返りで岡山に戻ることにしていました。
単純に岡山へ戻るだけなら「マリンライナー」が一番手軽ですし、クロ212はもちろん213系普通車も「マリンライナー」からの撤退が目前に迫っているのでこちらのお名残乗車ということにしても良いのですが、もと来た道をただ戻るのも芸がないので、帰りは高松港から宇野港(岡山県玉野市)へのフェリーと宇野駅からの宇野線列車を乗り継ぐコースをとることにし、高松駅から港までタクシーで移動します。
高松港と宇野港の間では、国鉄・JR四国の宇高連絡船・高速艇が廃止されてからも3社のフェリーがそれぞれ数十往復、24時間体制でフェリーを運航していました。
この時私が高松港から乗ったのは、3社のうち「宇高国道(うたかこくどう)フェリー」という会社の高松港発14:30発の便でした。
港のフェリー乗り場で乗船手続きをし、少し待合室で時間をつぶしたのちに乗船します。
宇高連絡船には一度も乗る機会がなかったので、運航会社は違うとはいえ同じうのー高松間航路の船ということで、少しでも宇高連絡船に乗った気分が味わえたらと期待して乗りました。
出港後は線内を歩いたり、デッキに出て海風に当たりながら海や瀬戸大橋を眺めたりして久しぶりの船旅を楽しみましたが、線内を歩いてみても乗客の少なさに驚かされました。乗った時間がちょうど平日昼間の閑散時間帯だったからだということもあるのでしょうが、当時就航していた船の定員の500人弱程度に対して、見たところ20人程度しか乗っていないようで、売店のおばさんも手持無沙汰な感じでした。(もちろんただ通り過ぎるだけでは申し訳ないので、私はスナック菓子と缶コーヒーを購入しました)
高松港から宇野港まで、フェリーでは約1時間の所要時間ですが、「マリンライナー」ではほぼ同じ時間で岡山駅まで行けてしまうので、高松市内から岡山市内の中心部まで行く場合や新幹線に乗り継ぐなら「マリンライナー」が断然便利なので、そちらに乗客が流れていたのは確かなようです。
そしてこの航路のフェリーのもう一つの大きな役目であるトラックなど自動車の航送も、一時期の高速道路の料金値下げなどの影響でかなり減っているそうで、こちらの影響も大きいようです。
案の定というか、私の載った数年後には高松ー宇野航路のフェリーの大幅な減便が始まり、今では運航会社も一社だけになってしまったようで、全盛期を知る人から見れば相当に寂しい状況になってしまったのではないでしょうか。
そういう意味では、私が乗った瓶は活気に乏しく寂しい船内風景でしたが、それでも少しでも宇高連絡船の追体験ができたという意味では、帰り道にあえてフェリーを選んでよかったと今でも思います。

宇野港には15:30頃に到着し、徒歩でJR宇野駅まで移動して115系の宇野線普通列車で岡山駅へ戻りました。
その後は倉敷ー三菱自工前間を結ぶ水島臨海鉄道に全線乗車し、この日ののりてつは終了となりました。

次回は広島編です。
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2003年9月の乗り鉄思い出しの記① ブルートレイン「出雲」編 [鉄活動レポート]

こんばんは、gonanaです。
少し前、2003年9月15日の阪神タイガースのセ・リーグ優勝の夜に大阪にいた時の話をしましたが、この時大阪にいたのは岡山・広島方面への乗り鉄旅から帰る途中に大阪に立ち寄った日にたまたま阪神優勝というタイミングと重なったことからの偶然でした。
私にとってはどうも阪神優勝のインパクトが大きくてその前の乗り鉄旅の印象がやや薄れてしまった感はありますが、実はこの旅で乗車した路線や列車、車両の中には、今はもう乗ることのできないものも多く含まれていました。
そこで、それらの今は乗ることのできない列車や車両(途中でフェリーも登場しますが)に乗った時のことを中心に、2003年9月の岡山・広島への乗り鉄旅の思い出をまとめてみたいと思います。
ただし、何せ16年前のことなのと、当時はまだデジカメを持っておらずこの旅でも写真は撮っていないうえ、普段の乗り鉄の時にも細かなメモをとる習慣がないため、少ない記憶を総動員して記事を書くこととなり、いろいろと間違い等があるかとは思いますが、どうかご容赦ください。

2003年9月11日(だったと思う)、私は少し遅目の会社の夏休みを利用して岡山・広島方面への乗り鉄旅に出かけました。主な目的は今回の「思い出しの記」でも取り上げる列車に乗ることでしたが、中でもその年の12月1日に廃止となった広島県内の可部線の非電化区間(可部ー三段峡間)に最初で最後の乗車をすることが大きな目的でした。

9月11日の夜、私は当時東京ー出雲市間(鳥取経由)で運転されていたブルートレイン「出雲」で乗り鉄旅に出発しました。
岡山方面へ夜行で向かうなら「サンライズ瀬戸・出雲」に乗るのが常道ですが(私の乗り鉄旅では高速バスは無縁の存在です)、この時敢えて山陰回りのルートをとることにしたのは、この頃にはもうすでに明確になっていたブルートレインや夜行列車削減の流れを考えると、それまで乗車したことのないブルトレ「出雲」もいつ廃止となるか予断を許さない状況と思われたので、今のうちに乗っておこうという気持ちがあったからでした。
ブルトレ「出雲」は21:10に東京駅を発車しました。
乗車したのは1人用A個室寝台「シングルDX」のオロネ25。同じオロネ25でも下関発着の「あさかぜ」と客車時代の「瀬戸」に連結されていたものには、「あさかぜ」で乗車経験があったものの、子供の頃憧れの存在だったオリジナルの0番台にはまだ乗ったことがないのでこれも今のうちに乗っておこうと奮発したものです。もっともその後、そのオロネ25 0番台を14系に編入改造したオロネ15に「富士」で乗ることにはなりますが・・・
座席(ベット)のモケットが確か新しい色のものに変わっていた以外はほぼ原形をとどめていたオロネ25の個室内は、寝具の上に浴衣とともに置かれたヘッドマーク入りタオル(さすがにマークは「出雲」だけの絵柄になっていましたが)とともに子供の頃にブルトレを取り上げた本・雑誌の写真や東京駅でホームから窓越しに覗き込んで見た時の雰囲気が残り、子供の頃一度乗ってみたいという憧れを抱いた頃を思い出させてくれました。
実際に乗ってみると、窓に近づきたいのに備え付けの洗面台が邪魔だったりして、他の個室寝台と比べてのわずかな不満はあるものの、ブルトレにはまった子供の頃を思い出しながら一夜を過ごすには十分な空間でした。
翌朝はどのあたりで目覚めたのか記憶はありませんが、おそらく福知山から城崎あたりの区間だったかと思います。
当時すでに現在のコンクリート橋梁への架け替えという話題が鉄道雑誌に出ていた余部鉄橋を渡ったのを見届けたところで食堂車オシ24へ向かいます。
このオシ24は、国鉄時代最末期に東京ー博多間の「あさかぜ1・4号」のグレードアップ計画の一環で内装を大幅に変更した「星空風」食堂車で、「出雲1・4号」の食堂車営業が休止された後もフリースペースとしてブルトレ「出雲」廃止まで連結が続けられていました。
食堂車内では、前夜の東京駅内のコンビニで購入しておいたサンドイッチと缶コーヒーで朝食。やはり食堂営業をしていたころに乗るチャンスに恵まれなかったのが悔やまれましたが、それでも曲がりなりにも食堂車で朝食をとることができたのはよい思い出になりました。
せっかく乗るなら終着の出雲市まで完乗したいところでしたが、この後の工程の都合上、残念ながら米子までの乗車となりました。
結局、ブルトレ「出雲」への乗車はこの時が最初で最後となりました。今思うとあの時敢えて岡山に直行せずに「出雲」を利用してよかったと思う一方、国鉄職のDD51が金帯入りの24系25形を牽引する姿を写真に収めておきたかったと悔やまれます。
山陰地方へは、この時の「出雲」乗車で通過したことがあるのみで実質的にはまだ訪れたことがないので、ぜひいつか「サンライズ出雲」に乗って訪れたいと思っています。

「出雲」で米子に到着した後は、約30分後に米子を発車する381系の伯備線特急「やくも」で岡山へ向かい、さらにまだ213系電車で運転されていた快速「マリンライナー」で高松へ向かいます。
岡山から先に関しては、次回の記事で書きたいと思います。
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世間話好きなもんで [ノンジャンル]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:美容室・理髪店では話したくない?話したい?

私は話したい派

お店のご主人や自分を担当してくれるスタッフの人柄にもよるし、あまりにも一方的に話しかけられてもうっとうしいけれど、基本的にはご主人屋スタッフさんと世間話でもしながら髪を切ってもらう方が好きです。

7~8年ほど前まで通っていた自宅近くの床屋さんのご主人(Hさんとします)は非常に気さくな方でした。
私が1ヶ月半~2ヶ月くらいに一度カットしてもらいに行くたびに「「最近仕事どう?」「最近どこかへ行った?」などと話しかけてくれました。また、そうした会話から私が鉄道好きだということに気づいてくれていたようで、私に鉄道がらみの話を振ってくれることも多かったです。
お客さんそれぞれの趣味や興味のあることなどに合わせた世間話をしながらカットなどをするのは他のお客さんに対しても同じで、野球やサッカー、釣り、音楽の話など、とにかくいろいろなジャンルの話題で、カットなどしてもらっている間のともすれば退屈な時間を紛らわせてくれました。
この床屋さんはHさんがたった一人で切り盛りしている時期が長かったので、お客さんとのコミュニケーションをとることも仕事を続けていく上で大切だったのだと思いますが、私にとってもHさんとの会話を楽しみながら髪を切ってもらうのは楽しいひとときでした。

その床屋さんが残念ながら閉店してしまったため、やはり自宅から近い別の床屋さんに通うようになりました。
その店もご主人(Yさんとします)一人で切り盛りされていましたが、少なくとも私に限ってはHさんとは対照的にカット中はほとんど会話をすることはありませんでした。
決してYさんは無愛想だったり親しみにくい人柄の方ではありませんし、私も余計なことを話しかけないでくれという空気を醸し出していたつもりはありませんが、それまでの話好きで、しかも決してうっとうしさを感じることのない、絶妙な距離感で接してくれたHさんと比べてしまうと、カットしてもらっていても何か物足りないような気分になってしまったのは事実でした。

最近は家族の知り合いで美容師経験のある方に紙をカットしていただいているので、しばらく床屋さんにはご無沙汰ですが、時にはHさんとあれこれ世間話を楽しみながらカットなどをしていただいたのを懐かしく思い出すこともあります。
今にして思えば、床屋さんと何気ない会話を楽しむことも、日々のストレスのよい解消法の一つだったのかもしれませんね。

タグ:床屋
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歩行レコーダー [視覚障碍者としてのあれこれ]

こんばんは、gonanaです。
私のような視覚障害者が白杖(はくじょう)を使って街中や駅の構内などを歩く時には、自転車や「歩きスマホ」をしながらこちらに向かってくる歩行者などと衝突するなど、事故やトラブルに巻き込まれるリスクが目の見える人よりも高くなりがちです。
そのことによってケガをしたり、持っていた白杖が破損したりすることはもちろん、そういった事象が起こった時の相手方(多くは目の見える人)とのトラブルに発展することも多くなります。
そのような時、たとえ視覚障害者であるこちらには明らかな非はなくても、「白い杖を持った人がぶつかってきた」とか「(交差点やT字路naなどで)突然飛び出してきた」など、自分の認識と違う相手方の主張が一方的に通り、見えない(見えにくい)者にとっては反論ができず不当にトラブルの責任を負わされたり心ない言葉を浴びせられたりすることも少なくありません。
そして、警察や第三者に対しても、見えないこちらがいくら反論してもなかなかこちらの主張を信用してもらえず、結果的に視覚障害者が一方的に加害者とみなされてしまうケースも少なくないのが実状です。
また、近年では視覚障害のある児童・生徒や女性が暴行を受けるなどの事件も起こっているようです。

視覚障害者と目の見える人との間のこうした事件や事故、トラブルの話を聴くたびに、トラブルに巻き込まれた時にその一部始終を録画しておくことで自分の主張の正当性を証明し、トラブルの状況を当事者だけでなく第三者にも正確に認識してもらうための、自動車で言うところのドライブレコーダーのようなものが歩行者、中でも視覚障害者には必要なのではないかと考えていました。

そんな折、私の所属する視覚障害者団体のメーリングリストに、まさにこのようなニーズに応えたといえる「歩行レコーダー」なるものの情報が寄せられていました。
この「歩行レコーダー」はiPhoneに対応したアプリで、視覚障害者が思わぬ事故やトラブルに巻き込まれた時に自分の主張の正当性を警察屋裁判で証明するために、トラブルの一部始終を撮影できるように開発されました。
必要な操作や設定はiPhoneに標準装備された「ボイスオーバー」という画面読み上げソフトに対応しており、「録画中」とか「停止中」などの歩行レコーダー使用時のiPhoneの画面表示を音声で確認できるほか、動作状態をサイン音で知ることもできます。
歩行レコーダーの録画方法には「エンドレス(ループ)録画」と「通常録画」の2つのモードがあり、用途に応じて使い分けることができます。
「エンドレス(ループ)録画」は、あらかじめカメラを起動させておき、事故やトラブルが起こった瞬間の状況を逃さず記録するために使います。トラブルなどが起こった時に録画停止した時点から遡って事前に設定した分数(10分・15分・20分の3つから選べます)の間の映像が録画されています。
一方「通常録画」は事故やトラブルの後の相手方とのやり取りなどの録画に適していて、こちらのモードでは録画時間に制限はありません(もちろん、iPhoneのバッテリーやメモリの残量により、録画可能時間の長さや通常録画容量は変動します)。
そして、トラブルなどが起こった直後に「エンドレス(ループ)録画」から「通常録画」へ録画モードを切り替えることで、トラブル発生からその後の当事者間のやり取りまでの一部始終をすべて記録しておくことができます。
また歩行レコーダーで撮影した映像の再生画面には、撮影時の日時や撮影場所の緯度・経度がリアルタイムに帯表示される「字幕タイムスタンプ機能」が備わっており、これも映像を警察に提出したり、トラブルが裁判沙汰に発展した際の証拠動画として歩行レコーダーの映像を使用する時の証拠としての信頼度を高めることにもなりそうです。

この歩行レコーダー、現状では「日本障害者ソフト」という会社のみの取り扱い製品となっていて一般発売はされていないようですが、視覚障害者だけでなく多くの人々にとって、特に外出時の事件・事故やトラブルに巻き込まれた時に自分を守るための備えとして、この歩行レコーダーのようなものがあれば、ドライブレコーダーがそうであるように、映像という「動かぬ証拠」によって、一方的に誰かが不当に不利な立場に追い込まれることなくトラブルの解決につなげる事ができそうです。
近年のドライブレコーダーの急速な普及や性能の向上を考えると、将来的には歩行レコーダーのような外出時に自分の周囲の状況を撮影するカメラアプリも、それほど遠くない時期に誰もが利用するアプリとして普及するのかもしれません。

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これはぜひともお願いしたい! [視覚障碍者としてのあれこれ]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:あったらいいなと思う自販機は?

このお題を見て、何が売られていたら便利か考えてみたものの・・・
あったらいいかも、って思う自販機って、実はもうすでにあるものが結構あるんですよね~
菓子類やアイスクリームの自販機はよく見かけるし、箱入りの焼きそばやたこ焼き、フライドポテトなどが加熱されて出てくる自販機はドライブインやサービスエリア、駅などで何度も利用したことがあります。
秋葉原駅の総武線ホームにはパンの自販機がありますし(買ったことはないですが)、地下鉄のとある駅にあるリンゴやバナナの自販機も利用したことがあります。
もう、およそ自販機で売ることのできる商品はあらかたどこかの自販機で売られているという状態なんだろうと思うので、あとはどれだけ使いやすくて、使うのが楽しくなる自販機が増えるかということが重要になってくるんでしょうね。
使うのが楽しくなる自販機ということでは、個人的には東京メトロ溜池山王駅にある銀座線01系をかたどった自販機のように、自販機を使う時に鉄道やバス等の乗務員の声が流れたり、観光地などでは地元の人気局アナやタレントがお国ことばで語りかけるメッセージが流れたりするなど、ちょっとした遊び心やギミックのある自販機がもっとあると面白いのでは?と思います。

それと、視覚障碍者の視点から言うと、全般的に自販機や駅の券売機などは視覚障害者には使いずらい機器の一つと言えると思います。
現在では商品選択のボタンや硬貨・紙幣の投入口などのそばに点字のステッカーが貼られた自販機も多くなったようですが、これも私のように点字の読めない(苦手な)人にとってはあまり役に立ちませんし、最近増えているタッチパネル式や購入希望の商品の画像をタッチして購入する方式のものはほぼお手上げです。
このような状況では、例えば飲み物を買おうとしてどこのボタンを押せばどんな商品が買えるのかといったことが分からず、目の見える人にどこのボタンを押せば希望の商品を変えるか教えてもらうか、さもなければお金を入れて適当にどこかのボタンを押し、出てきた商品を買って飲むというある種のギャンブルめいたことをするか、買うこと自体をあきらめるかの選択を迫られます。
そんな自販機を障害のある人や高齢者にも使いやすいものにするには、例えば商品選択はタッチパネルではなく従来と同じようなボタン式の方が望ましいと思うし、車いす利用者でも扱いやすいようにボタンなどの位置を下げて配置も集約したり、視覚障害者向けに商品選択ボタンに触れるとそれを押すことで買える商品の商品名と価格を音声で案内したり、硬貨・紙幣の投入口や返却口などに触れても音声案内が流れたりなどする機能が追加されるのが望ましいと思います。
おそらく現在の自販機の技術をもってすれば、このような「ユニバーサルデザイン自販機」とでも呼べそうな自販機は、わりと容易に開発できると思いますが・・・

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このデカさとうまさ、半端ない! [その他鉄道ネタいろいろ]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:立ち食いそばって行ったことある?

車両や乗り鉄だけでなく、駅弁や食堂車など鉄道にまつわる「食」も趣味の対象の一つとしている私としては、やっぱり駅の立ち食いそば(うどんも含みます。以下同じ)店は鉄道旅の途中などで本当によくお世話になってきましたし、駅を離れて街中にある立ち食いそば店(「富士そば」や「小諸そば」など)も時々利用します。
正直私は自他ともに認める「味オンチ」なので、駅そばや立ち食いソバの通の方々のようなこだわりや知識があるわけではないけれど、駅での乗り継ぎ時間やゆっくり昼食をとる時間のない時などにササッと食事ができてとても便利な存在ですし、店やチェーンごとに特色あるメニューも多くて楽しいです。
今までいろいろな立ち食いソバを食べてきた中で、一つだけ好きなメニューを挙げるなら、文句なく千葉県我孫子市にあるJR常磐線我孫子駅の名物「唐揚げそば」でしょう!
何年前だったか忘れてしまいましたが、この唐揚げそばが人気だという話をどこかで耳にして、初めて唐揚げそばを食べに行った時に受けたインパクトは今でも忘れられません。
我孫子駅に3店舗あるという(この他に、隣の常磐線天王台駅と、新京成線の新津田沼駅にも店舗があるそうです)を営業しているのは、「弥生軒」という会社です。この弥生軒、昭和10年代に「裸の大将」こと山下清画伯が住み込みで働いていたことでも有名で、立ち食いコーナーの店頭にも画伯のメッセージが書かれたプレートが出ています。
常磐線下りホーム(1・2番線)の立ち食いコーナーに初めて行ったとき、時刻は12時過ぎで狭い店内はほぼ満員でした。券売機で当時440円(1年ほど前に利用した時には540円でした)だった唐揚げ2個入りのそばの食券を購入してカウンターの中にいる店員のおばちゃんに渡して注文し、1分弱ぐらいで出てきたそばを見てビックリ!
入っている唐揚げは、よく唐揚げ弁当などに入っているような一口サイズのものではなく、ケンタッキーフライドチキンのチキンかと思うような、人間の握りこぶしほどのデカさのもの。これが2個も入っているので、そばは唐揚げの下に隠れて見えません。(唐揚げはそば・うどんに入れるだけでなく1個からばら売りもしているようです)
早速唐揚げを食べてみると、つゆに半分ぐらい浸かっているものの衣は揚げたてのようなサクッとした歯ごたえがあり、肝心の鶏肉も大きくて食べごたえが十分すぎるほどにあります。
何とかでっかい唐揚げ2個を完食してやっとそばを食べ始めます。味オンチの私にはそばは普通においしく感じるという程度でしたが、トッピングのインパクトが半端ではないので、もしかすると逆にこれが一番いいバランスなのかもしれません。
完食してカウンターのおばちゃんに「ご馳走様でした」と声をかけながら丼を返して店を出ると、なぜか超大盛りメニューを完食した後のような達成感を感じました。さすがにお腹も一杯になりましたが、その分満足感のほうも大きかったのを思い出します。
その後も何度も唐揚げそばを食べに我孫子駅のホームに立っています。いつ行ってもお客さんが多く、人気のほどがよくわかります。
時々無性に食べたくなる唐揚げそば、また食べに行きたいものです。

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アナログなバイト探し [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:バイトはどうやって探す(探した)?

今では、バイトを探すのも応募するのも、ネットでバイト情報のサイトにアクセスしたり、直接バイト希望の会社などのバイト応募フォームに入力してメール送信したりするのが当たり前なんだろうと思いますが、私が大学時代にいくつかバイトをやった30年弱前はまだネットも携帯もなく、当然バイト情報サイトなどというものもありませんでした。
だから、当時のバイト探しは「デイリーan」とか「From A」などの紙のバイト情報誌や新聞折込の求人チラシで探し、希望するものが見つかればそれぞれの会社へ電話を掛けて面接のアポを取る、といういたってアナログなやり方が普通でした。
最新の募集情報がすぐに更新されるネットや携帯の求人サイトと違って、紙媒体の宿命というべきか、せっかく「これは」と思うバイトを見つけてもそのバイト先に電話を掛けた時にはタッチの差で募集が終わってしまったりすることもよくありました。
そんな私なので、少し前にネットに出ていたこんなニュースには、時代の流れを感じずにはいられませんでした。

バイト求人の「an」、11月末に終了へ 紙からWebへの転換に苦戦 52年の歴史に幕 (ITmedia NEWS)
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1908/01/news141.html

私もバイト探しで雑誌の「an」はよく利用していたので、時代の流れとはいえ少々寂しいニュースでした。
それにしても、一昨年まで紙媒体の「an」が生き残っていたとは正直驚きです。これだけ就業形態を問わず求人も求職もネット経由でするのが当たり前のこの時代にも少ないとはいえ紙媒体のニーズはあったということなんでしょうか。

バイト探しといえば、私はバイト情報誌以外にも東京都新宿区下落合にあった「東京学生会館」という施設を利用したこともあります。
この東京学生会館は、西武新宿線下落合駅のすぐ近くにあり、正面入り口も西武線の線路沿いにあったので、電車の車窓からも建物がよく見えました。
「東京学生会館」は文部省(当時)の外郭団体の運営する施設で、かなりの低額で入居することのできる学生寮があるほか、やはり学生向けのアパートや下宿の紹介などいろいろな事業を行っていたそうですが、建物の1階にアルバイトの紹介を行う部屋もありました。
部屋の中には高校・大学の就職課やハローワークのようにバイト募集の求人票が、壁に張り出されたりテーブルの上に置かれたファイルに綴じられて公開されていて、利用者はそれらの求人票を見て希望に合うバイトを探します。
部屋の一角には公衆電話が数台置かれ、希望のバイト先が見つかった人はその公衆電話から応募や面接のアポ取りをしていました。
私が利用したのは夏休みや春休み前の数回でしたが、部屋の中はいつもバイト探しをする同じ年代の人たちがたくさん来書していて、時には講習電話がなかなか空かず、何分も待たされたり会館の外の公衆電話からアポ取りの電話をすることもありました。
東京学生会館も今はなく、跡地もマンションになったそうで、こんなところにも時代の流れを感じます。

おそらくバイト探しの方法としては、ほとんどの手順をPCやスマホから行う今のやり方の方が便利で簡単なのかもしれませんね。
紙のバイト情報媒体や求人票を使ったバイトの紹介事業が消えるというのも、こういう時代の必然なんでしょうか。
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【妄想シリーズ】東京―九州間寝台特急を復活させるなら [その他鉄道ネタいろいろ]

こんばんは、gonanaです。
昨日の記事で、日本でも夜行列車が復権する日がぜひやってきてほしいと書きました。
そこからのつながりというわけではないですが・・・
私はたまに、もし夜行列車(それに限らず今は姿を消した列車など)が復活したらということをなかなか眠れない夜やどうにも暇でしかたがない時などに妄想したりすることがあるのですが、今回はそんな妄想の中から、もし東京と九州を結ぶ寝台特急を復活させるならというテーマで妄想してみた内容を、ご紹介したいと思います。
あくまで採算や技術的な裏付けなど無視した勝手な妄想ですので、この辺りはご理解いただいて、お読みいただけるとありがたいです。

かつて、ブルートレインというより日本を代表する特急列車の一つともいえた東京―九州間を結ぶ寝台特急。
しかし少なくともJR移行後はほとんど明るい話題もないまま衰退が進み、ついに「富士はやぶさ」が廃止されて半世紀超の長い歴史に幕を下ろしてから、早いものでもう10年が過ぎました。
今や、この区間に寝台特急が走っていたことなど忘れ去られてしまいつつあるのが現実なのかもしれません。
でも、「歴史にもしもは禁物」といいますが、もし早い時期に「サンライズエクスプレス」と同等かそれをさらにブラッシュアップした寝台電車を投入して、大幅なスピードアップと車内設備の多様化とグレードアップを図っていれば、あるいはまだまだ存在感を発揮できたかもしれないという気もします。
そこで、以下に書くような方針を踏まえて東京―九州間寝台特急を復活させるならどのような列車にするのか、考えてみました。
この妄想アイデアを考えるうえでの前提としては以下のようなものがあります。
①車両は「サンライズエクスプレス」を長距離向けで観光利用にも対応できるように改良した新型寝台電車とし、可能な限り長距離にわたって130キロなどの高速で運転可能なようにする。
②九州側は鹿児島(肥薩おれんじ鉄道を含む)本線・日豊本線・長崎本線へ1往復ずつ、さらに博多まで1往復という形にする。それぞれの列車名はかつて同じルートを走っていたブルートレインと同じとし、頭に車両の愛称を冠としてかぶせる(「サンライズ瀬戸・出雲」などのように)
③東京側の始発駅は昔と同じ東京駅でもいいが、せっかく湘南新宿ラインというルートが確立したので、始発駅を大宮とし、池袋・新宿・渋谷に停車して利用しやすいエリアを広げる。
④ただ、そうなると東京の東・南部、そして茨城・千葉方面からの利用がしずらくなりそうなので、新宿方面からまっすぐ横浜へ向かわず、品川駅を経由させる事でこれらの地域から利用しようとする人々に一定の配慮をする。品川駅でのスイッチバックが発生することで所要時間が増えたりダイヤが複雑化したりとデメリットがあることも事実ではありますが・・・

いろいろなことを踏まえて、私なりに東京―九州間寝台特急についてのあれこれを妄想してみました。

まずは、設定する列車の妄想ダイヤを考えてみました。(上下それぞれの始発・終着駅のみ示し、途中の停車駅はすべて省略しました。また時刻は「だいたいこのくらいの時間」という風にお考えください)
●「富士」
1M列車 大宮16:00→南宮崎12:00
2M列車 南宮崎15:30→大宮11:30
●「はやぶさ」
3M列車 大宮16:30→鹿児島中央12:00
4M列車 鹿児島中央15:30→大宮11:00
●「さくら」
5M列車 大宮18:00→長崎11:00
6M列車 長崎17:30→大宮10:30
●「あさかぜ」
7M列車 大宮19:00→博多9:30
8M列車 博多19:30→大宮10:00

とまあ、こんな感じになりました。
先ほども書いたとおり車両技術などの裏付けがないので本当にこんなダイヤが成立するかは全くわかりませんが、あくまでも脳内で考えたものにすぎませんのでどうかご了承を。

続いては、車両とその設備についてです。
まずは車両について考えるための前提事項として、以下のようなものを考えました。
①列車の編成内容は4本の列車すべて共通で、8両の基本編成と6両の付属編成の組み合わせによる14両編成とする。
②車内設備に関しては「サンライズエクスプレス」と同じ個室寝台とカーペット敷きフルフラット座席(ノビノビ座席)を基本にした構成で、この他に長距離利用に備えて食堂車・ラウンジ・シャワールームなどを設置。また、社内のWi-Fi環境の整備や情報サービスの充実、女性専用車の設定など「サンライズ」登場後のサービスなどの変化を反映したものにする。
③車両の運用は「富士」(付属編成は大分まで)と「はやぶさ」(付属編成は熊本まで)、「さくら」(付属編成は博多まで)と「あさかぜ」(14両すべてが博多行)がそれぞれ共通運用を組み、車両の配置は前者の基本編成が鹿児島、付属編成が熊本か大分、後者は基本・付属とも南福岡とする。

以上を踏まえて、社内の設備は下のようにしてみました。
・A寝台「シングルDX」 5号車の2階部分に設置。
・1人用B個室「シングル」 1・3・4・10~13号車の1・2階部分(1・10・13号車は平屋構造とし、補助ベット使用で2人用も可とする)と5号車の1階部分に設置。1号車のものは女性専用とする。
・1人用個室寝台「ソロ」 8・9号車に設置。
・カーペット敷きフルフラット座席「「ノビノビ座席」 7・14号車と1号車の一部に設置。1号車のものは女性専用。
・食堂車 6号車に設置。2階部分を食堂、1階部分を厨房とする。
・ミニラウンジ 1・4・7・11号車に設置。1号車のものは女性専用。自販機(飲み物・おつまみなど)もここに設置。
・シャワールーム 1・7号車に設置。1号車のものは女性専用。

内容的には「サンライズ」と比べて大きく飛躍したところはあまりありませんが、それぞれの個室などの内容は現在の水準で考えて最高の居住性を提供できるものにすべきでしょう。

さて、東京―九州間の寝台特急を復活するならということであれこれ妄想してみました。
現実には採算面や技術面、列車ダイヤの問題など、いくつもの大きな壁が立ちはだかっており、この夢物語が現実になる可能性は相当に低いかもしれません。
しかし、移動手段の選択肢を増やすという観点で、こういう列車をもう一度検討してみるのも、あながち無駄とは言えないような気がします。
もしいつかこのような形で東京ー九州間寝台特急が復活する日が来たら、ぜひ乗車したいものです。
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日本にもぜひこの流れを! [その他鉄道ネタいろいろ]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:もう一度復活してほしいもの

この年齢になると、復活してほしい物とかなくしてほしくないものは数限りなくあります。
なので、この方面のテーマでの記事ももう何本目かになりますが、その中でも、鉄道好きとして最も復活してほしいのは「夜行列車」、それも各社の超豪華列車のようなものでなく、普通に寝台券や指定券を購入すればいつでも誰でも乗車できる列車です。
昭和の時代はまさに全国に張り巡らされていたブルートレインをはじめとする夜行れしゃのネットワークも、時代の流れや乗客のニーズに合わせた改善がなかなか進まないまま次々に廃止や縮小が進み、今や毎日運転の夜行列車は「サンライズ瀬戸・出雲」だけになるという、なんとも寂しい状況になってしまいました。
「それでも夜の移動は高速バスがあるからいいではないか」という意見もあるでしょうが、逆に言えば現在では夜のうちに長距離を移動する手段がほとんどの場合で高速バスしかなく、料金の高低や細かなサービスでの洗濯はできても移動手段そのものの選択肢が相当に狭くなってしまったということでもあります。
この状況を良しとするか不便とするかは人それぞれだと思いますが、私はやはり主要都市間の移動に関しては夜行列車と高速バスを好みや懐具合に合わせて自由に選べる方が好ましいと思います。
夜行列車の衰退は、高速バスや飛行機との競争に敗れたのが大きな理由の一つではありますが、その他にもダイヤの改善や、時代に合わせた新しい設備やサービスを積極的に導入したり、高すぎる運賃・料金の制度を改めるなどの改善を行っていれば、今のような寂しい状況はおそらくなく、夜行列車もそれなりに高速バスやLCCと対等に渡り合えていたかもしれないと思うと残念です。
とにかく、このまま夜行列車という列車ジャンルが絶滅の方向に向かう流れから脱して、新たな姿で復活することを期待したいものです。

ところで、少し前に夜行列車の衰退は日本だけでなくヨーロッパでも起こっているというのを知って私は衝撃を受けましたが、そのヨーロッパでどうやら夜行列車に復権の流れが生まれているようです。
詳しくは下記のリンクからどうぞ。

欧州で「夜行列車復活」の機運、日本の鉄道は? )東洋経済オンライン)
https://toyokeizai.net/articles/-/297608

日本とは鉄道網の状況も鉄道運営のシステムも大きく違うヨーロッパ各国のこととはいえ、このような潮目の変化は注目に値するのではないかと思います。さらに最近のヨーロッパでは地球温暖化対策という観点からも、飛行機よりも鉄道での移動を推奨する動きがあるようで、それも追い風になるかもしれません。
リンクの記事にもあるように、日本もヨーロッパも夜行列車衰退の原因には共通するところも多く、それを考えると日本でもヨーロッパの夜行列車復活の流れに学ぶところは多いのではないかと思います。
もちろん記事にもある通り日本でそのままヨーロッパ各国と同じような改善策が通用するわけではないのでしょうが、ぜひともこの夜行列車復権の流れが日本にもやってくることを期待したいものです。


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