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40年以上前の京急の思い出 その3 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
私が幼少期から小学生だった40年ちょっと前の京急の車両や列車の思い出、今回も続きます。

40年ちょっと前の京急線を走っていた車両としてもう一つ印象に残っているのが、都営地下鉄浅草線から乗り入れてくる都営地下鉄5000形でした。
現在では空港線への乗り入れ列車で相互直通各社の多彩な車両が乗り入れてくる京急ですが、私の子供時代は臨時列車などで稀に京成の車両が走る他はこの都営地下鉄5000形だけが京急線を走る他社の車両でした。
5000形は浅草線と京急の境界駅の泉岳寺駅から京浜川崎駅(現在の京急川崎)まで乗り入れるのが基本で(わずかながら当時の逗子線逗子海岸駅まで乗り入れる列車もあり)、京急線内は急行として走っていました。
私にとって5000形が印象に残っている理由は、何と言ってもその外観にありました。
CMのキャッチフレーズにもなっていたというほど定着していた赤い車体に白い帯の塗装の京急の車両の中では、上半分がクリーム色で下半分が朱色、その境にステンレス板や塗装による銀色の帯という5000形の車体色は子供の目にも目立ち、1982年東上の2000形まで京急車両になかった両開き式の扉も5000形の特徴でした。
また、5000形の増備車で2編成しかなかった5200形も、当時の京急にないステンレス車ということで5000形以上に目立つ存在でした。

最後に、私が子供の頃、この季節に京急を利用すると駅や電車内に「海水浴ダイヤのお知らせ」というポスターが掲示されていたのを思い出します。
昔から京急は夏の海水浴輸送には力を入れていて、私が子供の頃も主に三浦海岸への海水浴を盛んにPRしていました。
当時の海水浴ダイヤの内容は、普段は品川ー京浜久里浜(現在の京急久里浜)間の運転が多かった快速特急の一部を三浦海岸駅や三崎口駅まで延長運転したり、同じ区間に朝夕に臨時快速特急が走ったりした程度で、海水浴輸送の全盛期だったという昭和30~40年代と比べるとかなり縮小されていたようですが、それでも2~3回祖父に連れられてや家族で三浦海岸へ海水浴に行った時に乗った快速特急や特急は激込みで、もちろん海水浴場も大賑わいだったのを覚えています。
また、海水浴ダイヤのお知らせポスターとともによく掲示されていたのが、やはりその海水浴ダイヤの時期に運転されていた「ミュージックとレイン」という臨時列車の運転のお知らせでした。
「ミュージックとレイン」は海水浴ダイヤ期間中の平日に品川ー三浦海岸間で運転されていた列車で、朝に下り、夕方にのぼりが1本ずつ運転されていました。
子供の頃の私には、毎年お知らせは出ているけどどんな列車なのか知らないちょっと謎の存在という感じでした。
実はこの列車は、京急がスポンサーになって夏休み期間に三浦海岸の特設ステージから毎年公開生放送していた某ラジオ局の番組とタイアップした列車で、列車には毎日日替わりで出演してトークやミニライブを行うアイドル歌手やその関係者も乗車していたということを知ったのは結構後の話でした。
このような今では考えられないような列車が走っていたというのも、三浦海岸の海水浴がいかに盛況だったかという証だったのかもしれません。

ここまで、40年余り前の京急の思い出をいろいろと書いてみました。
京急は幼い頃から一貫して最も好きな鉄道会社の一つで乗車経験も多いので、この他にもいろいろと思い出はありますが、それについては機会があればまたまとめてみたいと思っています。
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