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お久しぶりです [日々のあれこれ&つぶやき]

こんにちは、そしてお久しぶりです。gonanaです。
6日ぶりの更新になってしまいました。
実は…
私、先日引っ越しました。
まあ、これまで住んでいた実家とはそれほど遠くは離れてませんが。
そしてこの記事も、さっそく引っ越し先の部屋で書いています。

これまで私は、実家に母親と住んでいました。
しかし母親も高齢となり、私も視覚障がい者ということで、今後の生活をどうすべきかいろいろ検討していました。
そんな中で、実家からもそれほど離れていない場所に障害者向けグループホームがあることを知り、2回ほど体験ということで1泊滞在しました。
そして、その結果も踏まえ、このたびそのグループホームへ本格的に入所することになったというわけです。

私にとって引っ越しは今回で3回目ですが、過去2回はまだ幼い頃で「引っ越し」というのがどれだけ大きな出来事なのかもよくわからずに両親に言われるまま新しい家に移ったという感じでした。
もちろんまだ子供なので私が引っ越しに伴う手続きをしたり引っ越しの準備をあれこれするなどということもありませんでした。
そういうこともあり、私にとってはある意味今回が初めての本格的な引っ越し経験だったともいえるかもしれません。
いやあ、一口に引っ越しをするといっても、グループホームへの入所の分も含めてとにかく役所や会社などへ提出する書類や届け出の多いこと。
視覚障がい者なので自筆で記入する必要のある書類は家族などに代筆してもらったものの、こんなにも引っ越しというのはいろいろ煩わしい作業の多いものなのだというのを改めて感じました。
そして部屋に置く家具や家電などの引っ越しも大変で、引っ越しを機に新しく購入するものがある一方、実家から移動するものも多く、それらを整理して搬入する作業に先週末は追われました。
この作業もなんとか落ち着き、やっと部屋の中も整理できてきました。そうかと思えば引っ越し当日に無事接続を終えて使えるようになったプライベート用と在宅勤務用の2台のPCのうちプライベート用のものがネットに接続できなくなるトラブルが発生し、その結果数日にわたってプライベートでPCを使うことができなくなり、ブログの更新も滞ってしまうことになりました。
さらに、これまでの生活とはいろいろなタイムスケジュールが変わってきたり、見えない者にとっては部屋に配置したり収納したりしたもののそれぞれの配置をこれからいかに早く頭に入れるかといったことなど、これからも新生活に慣れるための戦い(というほど大げさなものではないかもしれませんが)が続きそうです。

生活の拠点を移動する距離は大したことはないとはいえやはり引っ越しは簡単な作業ではないことを痛感したここ数週間でした。
とにかく、あれやこれやと慌ただしく私にとっての新生活が始まりました。
さて、これからどうなることやら…
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やっぱりこれがあるとうれしい [ノンジャンル]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:お弁当にこれが入っているとテンションが上がるおかず

やっぱり子供の頃から今に至るまで、肉系や揚げ物系のおかずが一品でも入っていれば嬉しいです。
特に毎日母親にお弁当を作ってもらっていた高校生時代は、日々のお弁当にこれが入っているのといないのとで、午後の授業に臨むやる気も違っていたような気がします。
母親の作ってくれる弁当の中身は、前の晩の夕飯の残りがおかずのメインになっていることも多かったですが、だからこそ前の晩に唐揚げやコロッケなどを食べていたりすると、次の日の弁当のおかずは楽しみでした。さすがに少し時間が経っているのと弁当に詰められていることで焼きたて・挙げたてとはいかないけれど、食べ盛りの男子高校生にとってはそういったおかずがあるだけでよりおいしく感じたものでした。
肉や揚げ物以外では、少し甘めな味付けの卵焼きやスクランブルエッグも好きでしたし、ポテトサラダやマカロニサラダも入っていると嬉しかった思い出があります。
おかずではないけれど、弁当のご飯がいつもの白いご飯や海苔のかかったものではなく、チキンライスやチャーハンになっていることが何度かありました。これも前の晩の残りではあるのだけれど、何だかいつもと違った贅沢な弁当に感じたものです。

高校生の頃の母親の弁当を思い出すと、30年あまり経った今では懐かしい気分になります。
残り物や冷凍食品メインのおかずではあったけれど、3年間毎日、母親が朝早くから準備をしてくれていたのだと思うと感謝しかありません。
この齢になって今後母親に弁当を作ってもらう機会はないかもしれないけれど、母親のお弁当の記憶はいつまでも大切にしたいです。
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【乗り物中心】九州修学旅行の思い出 その4 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。
34年前の九州への高校の修学旅行の思い出、最終回です。

修学旅行4日目の朝、熊本市内の宿を出た私たちは、まずはバスで熊本城へ向かいました。
バスでの移動距離はわずかでしたが、その大半で熊本市電も走る道路を走りました。
朝のラッシュ時とあって数両の電車と並走したりすれ違ったりする中、路面電車ファン的にラッキーだったのが、当時熊本市電唯一の連接車であった5000形(元 西鉄福岡市内線1000形)と少しの間並走したこと。
5000形は現在も西鉄時代の塗装に復元された1編成が現役のようですが、私が出会った当時も基本的には朝ラッシュ時などの多客時限定の運用となっていたので、乗車できないまでも見ることができただけで何だか得をした気分になりました。

熊本城を見学した後は、今夜の宿泊地長崎へ移動します。
熊本から長崎へは、天草半島を経由してフェリーで島原半島へ渡り、そこから長崎市内へ向かうというルートをとりました。
熊本城から天草の鬼池港へ向かう途中の国道には、JR九州の三角線と並行する区間があり、ラッキーにも単行のキハ31と2~3分ほど並走する場面もありました。
結局この修学旅行中にJR九州の列車の姿を眺めることができたのはここだけでした。
現在のように個性的な列車が多数走る時代にはまだなっていなかったものの、鉄道ファン的には少々物足りなくもありました
それでも、九州でしか見ることのできなかったキハ31に遭遇できたのはラッキーな時間でした。
鬼池校から島原半島の口之津港まではこの旅3度目のフェリーの旅となりました。
鬼池校から30~40分ほど乗ると口之津港に到着し、フェリーに積載していたバスに再び乗り長崎市内へ向かいました。
島原半島の中で具体的にどのあたりを通過したのかはあまり記憶にありませんが、おそらく終始車窓には雲仙普賢岳の姿も見えていたことでしょう。普賢岳の噴火や火砕流災害があったのはその翌年から翌々年にかけてのことで、通過した場所の中にはそれらの災害によって大きく姿を変えた場所もあるかもしれません。
いずれにしてもこの時期に島原へやってきたのは今から思うとかなり貴重な経験だったようで、今思うともっとよく景色を目に焼き付けておけばよかったと思います。
夕方近くなって長崎市内に入り、あとは市内のホテルへ向かうだけになりました。
しかし夕方のラッシュ時間帯に入って道路の混雑も激しいようで、バスはなかなか渋滞から抜け出せません。
バスの進行方向右手には、長崎駅前方面と赤迫方面とを結ぶ長崎電気軌道(路面電車)が通っていて、そこを走る電車がひっきりなしに現れてこちらとすれ違ったり追い抜いていく姿を見ることができました。
バスガイドさんはもちろん長崎の路面電車についても説明してくれたので、バスの窓からは多くの生徒が外を注目し、渋滞のイライラを忘れさせてくれました。
こうして、九州で路面電車が走っている3つの都市で路面電車の姿を初めて生で見ることができました。
残念ながら3都市とも実際に電車に乗る機会はありませんでした。でも、バスガイドさんはいずれの都市でも簡単に路面電車の紹介をしてくれ、路面電車が観光の面でも地域に根付いていることが感じられてファンとしては嬉しい限りでした。
ホテルでの夕食後は、長崎に落とされた原爆で被爆された方から体験を聞く会が開かれました。体験を話してくださった被爆者の方の語りからは、私たちが想像もつかないような悲惨な被爆の実態が感じられ、改めて原爆や戦争のない世界を築いていかなければならないという思いを新たにしました。

翌日は修学旅行最終日。
ホテルをバスで出発してカステラの工場(メーカー名は忘れてしまいましたが)を見学して、いろいろ変った味のカステラを試食したり工場直売品のお土産を購入したりしました。
その後は佐賀県を素通りして一気に福岡空港近くへ向かい、お土産屋さんで最後の九州土産の買い出しをし、空港へ向かいました。
福岡空港から羽田空港まで乗ったのは、確かJALのボーイング747だったと思います。
羽田までの約1時間40分ほど、修学旅行のあれこれを思い出しながらイヤホンで落語など聞いて過ごしていましたが、途中で気流の関係か、かなり揺れた場面もありました。
しかし飛行機は無事に羽田空港に到着。荷物を受け取った後空港の到着ロビーで解散となり、修学旅行は無事終わりました。

この修学旅行では、訪問した九州のいろいろな観光地はもちろん、道中で乗ったり目撃したりした乗り物も大きな思い出になりました。
鉄道以外の交通機関の状況はあまりよくわかりませんが、鉄道車両に限って言えばその時乗車したり見た車両の中には今はもう思い出の車両となったものも多く、改めて30年以上の時の流れを感じます。
今後もし機会があれば、この修学旅行のルートをバスやフェリーなども駆使しながらもう一度旅してみるのもいいかな、などとも思っています。
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【乗り物中心】九州修学旅行の思い出 その3 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。
34年前の九州への修学旅行の思い出、続きます。

大阪南港から鹿児島県の志布志港へ向かう夜行フェリーに乗船した私たちは、フェリーの桟敷席のカーペットの上で雑魚寝状態で修学旅行最初の夜を過ごしました。
やや波が高かったのか船は少し揺れていましたが、船酔いを起こすような強いものではなく、初めての船中泊ながら私はそこそこ眠れたと記憶しています。
朝目覚めると、相変わらず波の高い状態は続いているようでしたが、天気は良好でした。
朝食は確か指定された時間内に各自船内の食堂に食べに行く(メニューは全員一緒)という方法だったと思いますが、船の揺れや慣れない船中泊のためか、あまり私たちの中で朝食を食べている人は多くなかったようでした。
フェリーは8時半から9時頃に志布志港に到着し、私にとっては初の九州への上陸となりました。
ここからは最終日の福岡空港到着まで、基本的にはすべて貸し切りバスでの移動となります。
まず初日は志布志港から宮崎県串間市の都井岬に移動し、御崎馬(みさきうま)という国の天然記念物に指定されている日本在来馬とふれあいました。
何という名前だったかは忘れてしまいましたが、かなり大規模な広場のような場所で馬と間近で触れあうことができましたが、中には私の後方から鼻先をぶつけてくる馬もいたりして、普段馬と接する機会のない私にとってはなかなか面白い経験でした。
御崎馬としばし戯れた後は、日南海岸などを観光してその日は青島のホテルに宿泊しました。

翌日の3日目はバスで鹿児島県内へ移動し、島津家別邸「仙巌園」(「磯庭園」ともいう)や城山などを巡り、鹿児島市内に宿泊。
さらに翌日は桜島にも足を延ばし、もちろん桜島へのフェリーにも往復乗船しました。
鹿児島市内の移動中には2回ほど鹿児島市電と交差したり併走したりする場面もありました。
当時の鹿児島市電は現在のように低床車や洗練されたスタイルの車両更新車が幅を利かす少し前の時代でした。
それぞれほんの一瞬の時間でしたが、前日はほぼ鉄道との出会いのない一日だったので、鉄道好き的には楽しい一瞬でした。
桜島観光の後はそのまま熊本へ移動しました。どのようなルートで熊本へ向かったのかは記憶にありませんが、阿蘇山に近い地域も通ったような記憶はあります。
この日は熊本での見学などはなく、おそらく宿泊する熊本市内のホテルにまっすぐ向かったと思われます。

次回、最終回です。
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【乗り物中心】九州修学旅行の思い出 その2 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。
34年前の九州への修学旅行の思い出、前回からの続きです。

東京駅から新幹線0系「ひかり」で新大阪駅に到着した私たちは、ここから貸し切りバスで志布志港行のフェリーが出る大阪南港へ移動します。
新大阪駅から大阪南港へは大阪市営地下鉄(現 大阪メトロ)の御堂筋線・四つ橋線・新交通システムのニュートラムを乗り継ぐコースでも行け、私個人の旅だったら間違いなくこちらを選ぶでしょう。
ただ、さすがに400人近い高校生が都心の地下鉄や輸送力の小さな新交通システムの車内になだれ込むのも無理があるというもので、バス移動ということになりました。
個人的にはニュートラムには乗ってみたかったですが(笑)

新幹線を降りた私たちは、駅の外に出て団体専用の大型バスの駐車場に移動し、大阪南港まで乗る貸し切りバスがやってくるのをクラスごとに並んで待ちます。
特にこれといってすることもなくぼ~っと立っていると、突然駐車場の向こうの方に黄色い電車がやってきました。
突然のことで驚きましたが、どうやら団体用駐車場のそばを新大阪駅近くにある車両基地(当時の宮原客車区や宮原電車区)へ向かう回送線が通っていたようです。
そして、やってきたのは当時JR宝塚線(福知山線)の大阪―新三田間で運用されていた宮原電車区(当時)のカナリアイエロー色の103系だったというわけです。
関東ではこの時代も中央・総武緩行線や南武線で大活躍していたカナリア色の103系も、関西で見られるのはJR宝塚線の車両だけで、貴重な存在でした。
そういう車両を見ることができたということで、退屈なバス待ちの時間が急に楽しい時間に変わりました。
周囲では、「何で大阪に総武線が走ってるの?」という声も上がっていました。確かに私たちのような西武沿線民にとっては、黄色い電車といえば西武線か総武線というイメージが強いので、事情を知らない人にとってはびっくりだったことでしょう。
103系が走り去って2~3分ほどすると、103系とは逆方向へまたたった1両の列車が通過しました。
この時やってきたのは、岡山を拠点にに活躍していた12系客車改造のジョイフルトレイン「ゆうゆうサロン」の専用機関車として活躍していたEF65123号機で、客車を牽引しない単機での快走といったところでした。
同機は当時、「ゆうゆうサロン」の客車と同色の茶色ベースに金色帯という姿になっていました。
この機関車も関東ではなかなかお目にかかれない車両の一つだっただけに、103系以上にラッキーな遭遇となりました。
こちらにも周りからは「あれ?この電車1両だけで走ってる!」という声がどこからともなく上がっていました。
おそらく遠目には電車と機関車の区別がつかなかったのでしょうし、そもそも鉄道車両はすべて「電車」と呼ぶ人だったのかもしれませんが。
いずれにしても、単なる通過点のはずの大阪で、思わぬ「見る鉄」ができたのはとても大きな思い出の一つになりました。
残念だったのは、せっかくの貴重な出会いを全く撮影していないこと。確かこの修学旅行にはカメラの持参も許可されていたような記憶がありますが、あまりに突然のことでカメラを取り出す余裕が全くなかったのが正直なところでした。
カナリアイエローの103系もEF65 123号機も、今はもうすでに過去の車両となってしまっただけに、この時たとえ下手でも撮影できていれば…と悔やまれます。

さて、時間にすればせいぜい10数分ながら濃厚な鉄分補給の後(私のような鉄道好きだけでしょうが)、予定通り貸切バスに乗り込んで大阪南港へ向かいました。
新大阪駅から40~50分くらい(正確なところは覚えていませんが)で大阪南港のフェリーターミナルに到着し、今夜の宿でもある志布志港行きのフェリーに乗船です。
これも正確な時刻は忘れてしまいましたが、18~19時台くらいに大阪南港を出港し、私にとっては初めての長距離フェリーの旅が始まりました。
席はカーペット時期の桟敷席で、ここにクラスや班ごとといった単位で雑魚寝する形でした。
夕食にどんなものを食べたのかは覚えていませんが、おそらく船内の食堂をほぼ貸切状態にして食べたのだと思われます。
夜行フェリーに乗ったからにはぜひデッキに出て外の空気を吸ったり、夜の海や星空などを眺めてみたくなるものですが、この時にはそういった記憶がありません。
先生方からデッキに出ることを禁じられていたのか、それともまだ寒い3月ということでデッキに出なかっただけなのかは、今となっては定かではありませんが…
そんなこんなで、まだ九州に着いていないのに私としてはかなり濃密な思い出の残った修学旅行初日も終わり、カーペットの上で就寝となりました。

次回に続きます。
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【乗り物中心】九州修学旅行の思い出 その1 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:修学旅行どこ行った?

50代ともなると、修学旅行もすでに30年以上前の遠い思い出になってしまっています。
修学旅行でどこへ行ったかといえば、小学校が日光、中学校が佐渡島、高校が九州でした。
日光は当時(40年前)も今も関東地方の小学校の修学旅行の行先としては定番らしいですし、九州も修学旅行先の大定番のようですね。
ただ今でも謎なのが、なぜ中学時代の行先が佐渡島になったのかということ。
私が中学の修学旅行で佐渡に行ったと言うとほぼ全員に不思議がられます。
関東の中学校の修学旅行先の定番はおそらく京都・奈良あたりなんでしょうけど、どうしてその定番を外したのか…?
まあ、佐渡金山を見学したり島内の絶景スポットに行ったり、新潟港と佐渡の両津港の間は片道が普通のフェリー、もう片道はジェットフォイルに乗れたりで、結構楽しかったんですけどね。

そして、今回は高校時代の修学旅行の思い出を記していきたいと思います。

「平成」が始まってちょうど2か月経った1989年3月上旬から中旬にかけて、当時高校2年生だった私は、通っていた高校の九州への修学旅行に参加しました。
日程は5泊6日(うち船中1泊)でした。
埼玉県内の高校を出発し、新幹線と長距離フェリーを乗り継いで鹿児島県の志布志港から九州に上陸。
そこから時計回りに九州をほぼ一周(ただし大分県には足を踏み入れず、佐賀県内も通過するだけ)し、福岡空港から飛行機で帰路につくというコースでした。
もちろん修学旅行ですから九州各地で見学などの思い出もいろいろできましたが、30年以上も前の話となるとやや記憶があやふやな部分も出てきてしまいます。
それよりも、九州への行き帰りや九州内で乗った(または目撃した)乗り物の思い出の方が鮮明に残っています。
そこで、この九州への修学旅行の思い出を、道中の乗り物の話を中心に振り返りたいと思います。

修学旅行初日は、自宅から一旦通学していた高校に集合。
高校は西武線某駅が最寄りのため、まずは西武線と山手線を乗り継いで東京駅へ向かいました。
私たちの学年は400人近く生徒がいたと思いますが、西武線・山手線ともに移動時はおそらく貸切列車利用とはせず、クラス単位で2~3班に分かれて一般の定期列車に乗車する形をとったと思います。
東京駅からは、東海道新幹線で新大阪へ向かいます。
今も昔も、修学旅行で新幹線を利用する学校の中には修学旅行専用列車を利用する学校も多いようですが、私たちは通常の「ひかり」利用でした。
もちろんこの時代に「ひかり」を利用するとなれば、当時の最新形式である100系に乗れると期待してしまいます。(事実、私以外にも同じことを考えていた人は多かったようです)
でも実際に乗車したのは0系で、この時は少々残念な気持ちにもなりました。
しかし、結果的には山陽新幹線区間も含め、私が0系「ひかり」に乗車したのはこの時が最初で最後となり、これはこれで貴重な思いでとなりました。
乗車した「ひかり」(号数は忘れてしまいましたが)の東京駅発車は12時台(これも正確な時刻は失念)で、この時間の出発とあれば食堂車も利用したくなります。
しかし修学旅行中とあってはそうもいかず、各自自宅から持参した弁当で昼食となりました。
弁当を食べた後は友達とおしゃべりしたり眠ったり、新大阪までの約3時間、各自それぞれ思い思いに過ごしていました。
そんな中、鉄道好きの私は終始流れる車窓に釘付けとなり、眠気を覚えることもありませんでした。
特に熱海以西は初の乗車となるので、見るものすべてが新鮮でした。
当日富士山がよく見えたかどうかの記憶はあやふやですが、新大阪までの道中で出会った鉄道車両たちの姿は大いに楽しむことができました。
地点は思い出せませんが、静岡県内の東海道本線との並行(交差?)区間ではEF65一般形が牽引する貨物列車を目撃、名古屋付近では名鉄7000系「パノラマカー」や1000系「ぱのらまsuper」等の名鉄電車を短時間のうちに何編成も目撃できました。
京都駅では高架上から構内に留置中のスカイブルーの201系を見て「いよいよ関西までやってきた」という感激に浸り、大山崎付近(京都ー新大阪間)の阪急京都線との併走区間では期待通り阪急電車とのすれ違いを見ることもできました。(期待していた当時の特急車6300系ではなかったけれど)
そんなこんなで新幹線の車窓に興奮が収まらないまま「ひかり」は新大阪駅に到着しました。
長い乗車で「付かれた~」とこぼしている人も周りにはいましたが、私にとっては本当にあっという間の3時間でした。
まだ九州にも渡っていないのに、修学旅行の最初の思い出ができてラッキーな気分でした。
この後新大阪駅からは、貸切バスを利用して大阪南港へ移動し、志布志港行きの夜行フェリーに乗り継ぐことになりますが、その貸切バスに乗る前に、またしても鉄道好きの私を興奮させる光景に出会いました。
そのあたりはまた次回に続きます。
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