ブルートレイン「出雲」乗車の思い出 [その他鉄道ネタいろいろ]
こんばんは、gonanaです。
今回は過去に乗車した今はなき列車の思い出シリーズで、ほぼちょうど20年前に乗車したブルートレイン「出雲」の思い出です。
「出雲」は1950年に急行列車として運転を開始し、1972年には東京ー浜田間を結ぶ寝台特急となりました。
その後1978年に出雲市止まりの1往復が加わって2往復体制となりこれが長く続きますが、1998年には出雲市止まりの「出雲3・2号」が電車化されて「サンライズ出雲」となりました。
この時、浜田行きの「出雲1・4号」は「サンライズ出雲」が経由しない福知山・鳥取・倉吉などへの利用客の利便を図るためにブルートレインのまま残され、運転区間を出雲市までに短縮し列車名を号数表示のない「出雲」に変更して2006年3月のダイヤ改正で廃止されるまで走り続けました。
私は2003年9月中旬、少し遅めにとった会社の夏休みを利用して岡山・広島方面へ乗り鉄旅に出かけました。
住んでいる関東からはまずは岡山へ向かうことにしましたが、東京駅からまっすぐ新幹線あるいは「サンライズ瀬戸・出雲」、または東海道・山陽本線の快速・普通列車乗り継ぎで向かうのでは新鮮味がないので、それまで乗ったことのない山陰本線と伯備線を経由して岡山駅へ向かうルートをとることにしました。
そして、せっかく山陰本線を経由するのならということで乗ることにしたのがブルートレイン「出雲」(以下、単に「出雲」と表記している場合はブルートレインの「出雲」を指します)でした。
そして「出雲」乗車のもう一つの理由は、ダイヤ改正のたびにブルートレインや夜行列車が次々に廃止されていくその頃の流れの中で、まだ未乗車だった「出雲」もいつ廃止されてしまうか予断を許さないということで今のうちに乗っておこうという気持ちがあったためでした。
2003年9月11日(だったと思う)、私は20時半近くに東京駅に到着。構内のコンビニで飲み物と朝食用のパンなどを購入してホームへ上がりました。
やがて品川から回送されてきた「出雲」編成が入線。ひととおり編成の前から後ろまで車号をチェックしながらホームを歩いてから私も乗車しました。
そして「出雲」は21:10に東京駅を定刻発車し、東海道本線を西へ下ります。
私がこの日乗車したのは、1号車の1人用A個室寝台「シングルDX」のオロネ25。
同じオロネ25でも、「出雲」に連結されていたのは先日乗車の思い出記事を書いた下関発着の「あさかぜ」乗車時に利用した300番台ではなく、「出雲」が1976年に24系25形客車での運転になって以来最後まで連結されていた0番台。
このオロネ25 0番台は私の子供の頃の憧れの車両でしたが、それまでまだ乗車経験がなかったので、これも今のうちに乗っておこうと奮発したものでした。もっともその後、そのオロネ25 0番台を14系に編入改造したオロネ15に「富士」で乗ることにはなりましたが…
子供のころからあこがれてついに乗車できたオロネ25 0番台は、座席(ベット兼用)のモケットの色がオリジナルとは異なる色のものに変わっていた以外はほぼ原形をとどめていて、子供の頃にブルトレを取り上げた本・雑誌の写真や東京駅でホームから窓越しに個室内を覗き込んで見た時の雰囲気がそのまま残り、子供の頃一度乗ってみたいという憧れを抱いた頃を思い出させてくれました。
座席の上に枕や毛布、浴衣とともにA個室乗車記念(?)のヘッドマーク入りタオルが置かれていたのも昔と同じでしたが、ヘッドマークの絵柄はさすがに「出雲」だけがプリントされていました。(ちなみに、後に「富士」のシングルDXを利用した時には、「さくら」「はやぶさ」「富士」のマークと赤いJRロゴがプリントされたタオルが置かれていました)
実際に乗ってみると、車窓を眺めるために窓に近づきたいのに備え付けの洗面台が邪魔だったりして、JRになってから登場した他の個室寝台車と比べてのわずかな不満はあるものの、ブルートレインにハマった子供の頃を思い出しながら一夜を過ごすには十分な空間でした。
静岡駅に停車したかしないかぐらいのタイミングで就寝し、翌朝はどのあたりで目覚めたのか記憶はありませんが、おそらく福知山駅を出てしばらくしたあたりだったかと思われます。
そして、当時すでに現在のコンクリート橋梁への架け替えが予定されていた余部鉄橋を渡ったのを見届けたところで、元食堂車オシ24へ向かいました。
「出雲」に連結されていたオシ24形は、国鉄時代最末期に東京ー博多間のブルートレイン「あさかぜ1・4号」の車両グレードアップ計画の一環で内装を大幅にリニューアルした「星空風」食堂車で、1991年に「出雲1・4号」の食堂車営業が休止された後も「ロビーカー」的なフリースペースとして「出雲」廃止までそのまま連結されていました。
テーブルやイスもそのまま残っている食堂車内では、前夜の東京駅内のコンビニで購入しておいたパンと缶コーヒーで朝食。曲がりなりにも食堂車で朝食をとることができたのはよい思い出になりましたが、やはり実際に食堂車でできたての朝食を食べる経験ができなかったのは悔やまれました。
個室に戻りのんびりしているうちに、9:20頃到着の米子駅が近づいてきました。せっかく乗るなら終着の出雲市駅まで完乗したいところでしたが、この後の行程の都合もあり残念ながら米子駅までの乗車となりました。
結局、「出雲」への乗車はこの時が最初で最後となりました。
今思うとあの時、あえて岡山に直行せずに「出雲」を利用してよかったと思いますが、一方で当時は鉄道写真の撮影を一時や住んでいたため、国鉄職のDD51が「出雲」を牽引する姿を写真に残しておきたかったという思いは今もあります。
山陰地方へは、この時の「出雲」に乗車しての通過が唯一の訪問経験で、実質的にはまだ訪れたことがない地域でもあるので、ぜひいつか「サンライズ出雲」に乗って訪れたいと思っています。
今回は過去に乗車した今はなき列車の思い出シリーズで、ほぼちょうど20年前に乗車したブルートレイン「出雲」の思い出です。
「出雲」は1950年に急行列車として運転を開始し、1972年には東京ー浜田間を結ぶ寝台特急となりました。
その後1978年に出雲市止まりの1往復が加わって2往復体制となりこれが長く続きますが、1998年には出雲市止まりの「出雲3・2号」が電車化されて「サンライズ出雲」となりました。
この時、浜田行きの「出雲1・4号」は「サンライズ出雲」が経由しない福知山・鳥取・倉吉などへの利用客の利便を図るためにブルートレインのまま残され、運転区間を出雲市までに短縮し列車名を号数表示のない「出雲」に変更して2006年3月のダイヤ改正で廃止されるまで走り続けました。
私は2003年9月中旬、少し遅めにとった会社の夏休みを利用して岡山・広島方面へ乗り鉄旅に出かけました。
住んでいる関東からはまずは岡山へ向かうことにしましたが、東京駅からまっすぐ新幹線あるいは「サンライズ瀬戸・出雲」、または東海道・山陽本線の快速・普通列車乗り継ぎで向かうのでは新鮮味がないので、それまで乗ったことのない山陰本線と伯備線を経由して岡山駅へ向かうルートをとることにしました。
そして、せっかく山陰本線を経由するのならということで乗ることにしたのがブルートレイン「出雲」(以下、単に「出雲」と表記している場合はブルートレインの「出雲」を指します)でした。
そして「出雲」乗車のもう一つの理由は、ダイヤ改正のたびにブルートレインや夜行列車が次々に廃止されていくその頃の流れの中で、まだ未乗車だった「出雲」もいつ廃止されてしまうか予断を許さないということで今のうちに乗っておこうという気持ちがあったためでした。
2003年9月11日(だったと思う)、私は20時半近くに東京駅に到着。構内のコンビニで飲み物と朝食用のパンなどを購入してホームへ上がりました。
やがて品川から回送されてきた「出雲」編成が入線。ひととおり編成の前から後ろまで車号をチェックしながらホームを歩いてから私も乗車しました。
そして「出雲」は21:10に東京駅を定刻発車し、東海道本線を西へ下ります。
私がこの日乗車したのは、1号車の1人用A個室寝台「シングルDX」のオロネ25。
同じオロネ25でも、「出雲」に連結されていたのは先日乗車の思い出記事を書いた下関発着の「あさかぜ」乗車時に利用した300番台ではなく、「出雲」が1976年に24系25形客車での運転になって以来最後まで連結されていた0番台。
このオロネ25 0番台は私の子供の頃の憧れの車両でしたが、それまでまだ乗車経験がなかったので、これも今のうちに乗っておこうと奮発したものでした。もっともその後、そのオロネ25 0番台を14系に編入改造したオロネ15に「富士」で乗ることにはなりましたが…
子供のころからあこがれてついに乗車できたオロネ25 0番台は、座席(ベット兼用)のモケットの色がオリジナルとは異なる色のものに変わっていた以外はほぼ原形をとどめていて、子供の頃にブルトレを取り上げた本・雑誌の写真や東京駅でホームから窓越しに個室内を覗き込んで見た時の雰囲気がそのまま残り、子供の頃一度乗ってみたいという憧れを抱いた頃を思い出させてくれました。
座席の上に枕や毛布、浴衣とともにA個室乗車記念(?)のヘッドマーク入りタオルが置かれていたのも昔と同じでしたが、ヘッドマークの絵柄はさすがに「出雲」だけがプリントされていました。(ちなみに、後に「富士」のシングルDXを利用した時には、「さくら」「はやぶさ」「富士」のマークと赤いJRロゴがプリントされたタオルが置かれていました)
実際に乗ってみると、車窓を眺めるために窓に近づきたいのに備え付けの洗面台が邪魔だったりして、JRになってから登場した他の個室寝台車と比べてのわずかな不満はあるものの、ブルートレインにハマった子供の頃を思い出しながら一夜を過ごすには十分な空間でした。
静岡駅に停車したかしないかぐらいのタイミングで就寝し、翌朝はどのあたりで目覚めたのか記憶はありませんが、おそらく福知山駅を出てしばらくしたあたりだったかと思われます。
そして、当時すでに現在のコンクリート橋梁への架け替えが予定されていた余部鉄橋を渡ったのを見届けたところで、元食堂車オシ24へ向かいました。
「出雲」に連結されていたオシ24形は、国鉄時代最末期に東京ー博多間のブルートレイン「あさかぜ1・4号」の車両グレードアップ計画の一環で内装を大幅にリニューアルした「星空風」食堂車で、1991年に「出雲1・4号」の食堂車営業が休止された後も「ロビーカー」的なフリースペースとして「出雲」廃止までそのまま連結されていました。
テーブルやイスもそのまま残っている食堂車内では、前夜の東京駅内のコンビニで購入しておいたパンと缶コーヒーで朝食。曲がりなりにも食堂車で朝食をとることができたのはよい思い出になりましたが、やはり実際に食堂車でできたての朝食を食べる経験ができなかったのは悔やまれました。
個室に戻りのんびりしているうちに、9:20頃到着の米子駅が近づいてきました。せっかく乗るなら終着の出雲市駅まで完乗したいところでしたが、この後の行程の都合もあり残念ながら米子駅までの乗車となりました。
結局、「出雲」への乗車はこの時が最初で最後となりました。
今思うとあの時、あえて岡山に直行せずに「出雲」を利用してよかったと思いますが、一方で当時は鉄道写真の撮影を一時や住んでいたため、国鉄職のDD51が「出雲」を牽引する姿を写真に残しておきたかったという思いは今もあります。
山陰地方へは、この時の「出雲」に乗車しての通過が唯一の訪問経験で、実質的にはまだ訪れたことがない地域でもあるので、ぜひいつか「サンライズ出雲」に乗って訪れたいと思っています。
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