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40年以上前の京急の思い出 その3 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
私が幼少期から小学生だった40年ちょっと前の京急の車両や列車の思い出、今回も続きます。

40年ちょっと前の京急線を走っていた車両としてもう一つ印象に残っているのが、都営地下鉄浅草線から乗り入れてくる都営地下鉄5000形でした。
現在では空港線への乗り入れ列車で相互直通各社の多彩な車両が乗り入れてくる京急ですが、私の子供時代は臨時列車などで稀に京成の車両が走る他はこの都営地下鉄5000形だけが京急線を走る他社の車両でした。
5000形は浅草線と京急の境界駅の泉岳寺駅から京浜川崎駅(現在の京急川崎)まで乗り入れるのが基本で(わずかながら当時の逗子線逗子海岸駅まで乗り入れる列車もあり)、京急線内は急行として走っていました。
私にとって5000形が印象に残っている理由は、何と言ってもその外観にありました。
CMのキャッチフレーズにもなっていたというほど定着していた赤い車体に白い帯の塗装の京急の車両の中では、上半分がクリーム色で下半分が朱色、その境にステンレス板や塗装による銀色の帯という5000形の車体色は子供の目にも目立ち、1982年東上の2000形まで京急車両になかった両開き式の扉も5000形の特徴でした。
また、5000形の増備車で2編成しかなかった5200形も、当時の京急にないステンレス車ということで5000形以上に目立つ存在でした。

最後に、私が子供の頃、この季節に京急を利用すると駅や電車内に「海水浴ダイヤのお知らせ」というポスターが掲示されていたのを思い出します。
昔から京急は夏の海水浴輸送には力を入れていて、私が子供の頃も主に三浦海岸への海水浴を盛んにPRしていました。
当時の海水浴ダイヤの内容は、普段は品川ー京浜久里浜(現在の京急久里浜)間の運転が多かった快速特急の一部を三浦海岸駅や三崎口駅まで延長運転したり、同じ区間に朝夕に臨時快速特急が走ったりした程度で、海水浴輸送の全盛期だったという昭和30~40年代と比べるとかなり縮小されていたようですが、それでも2~3回祖父に連れられてや家族で三浦海岸へ海水浴に行った時に乗った快速特急や特急は激込みで、もちろん海水浴場も大賑わいだったのを覚えています。
また、海水浴ダイヤのお知らせポスターとともによく掲示されていたのが、やはりその海水浴ダイヤの時期に運転されていた「ミュージックとレイン」という臨時列車の運転のお知らせでした。
「ミュージックとレイン」は海水浴ダイヤ期間中の平日に品川ー三浦海岸間で運転されていた列車で、朝に下り、夕方にのぼりが1本ずつ運転されていました。
子供の頃の私には、毎年お知らせは出ているけどどんな列車なのか知らないちょっと謎の存在という感じでした。
実はこの列車は、京急がスポンサーになって夏休み期間に三浦海岸の特設ステージから毎年公開生放送していた某ラジオ局の番組とタイアップした列車で、列車には毎日日替わりで出演してトークやミニライブを行うアイドル歌手やその関係者も乗車していたということを知ったのは結構後の話でした。
このような今では考えられないような列車が走っていたというのも、三浦海岸の海水浴がいかに盛況だったかという証だったのかもしれません。

ここまで、40年余り前の京急の思い出をいろいろと書いてみました。
京急は幼い頃から一貫して最も好きな鉄道会社の一つで乗車経験も多いので、この他にもいろいろと思い出はありますが、それについては機会があればまたまとめてみたいと思っています。
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40年以上前の京急の思い出 その2 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
前回に引き続き、私が幼少期から小学生だった頃の京急の車両や列車の思い出を振り返ります。

私の生まれ故郷でもあり、その後も祖父母の住んでいた家の最寄り駅でもあった雑色駅は、これまたこのブログで何度も書いた通り、今も昔も普通電車鹿停車しない駅です。
そのため、雑色駅から京急に乗ってどこかへ行くとなれば、まずは普通電車に乗り、途中で快速特急や特急に乗り換えるのが定番でした。
その普通電車でよく乗車したのは1000形と4扉車の700形でした。
これらの車両には当時これといって子供心に興味を惹かれる要素はあまりありませんでしたが、後年高松琴平電鉄に譲渡されたこの2形式に現地で乗車すると、車窓の風景などは異なるものの、子供の頃に両親や祖父母などと乗った時の思い出がよみがえってきて懐かしい気分になります。そんな普通電車用の新形式社として1978年末に800形が登場した時には、その斬新なスタイルを一目見てすぐに乗りたくなりました。
この頃にはすでに西武沿線に引っ越してはいましたが、祖父母の家に行くためにわりと頻繁に京急に乗る機会があったので、いつ乗れるかと楽しみにしていましたが、実際に800形が普通電車の運用に入るのは朝夕のラッシュ時が多かったようで、私が800形に初めて乗れたのは東上してから1年あまり経ってからでした。
それでもそれまで子供心にかっこよいと思えるようなデザインの車両が特にいなかった京急に登場した新車の印象は強く、1979年に800形が鉄道友の会のローレル賞を受賞した際に発売された記念のネクタイピンを祖父に買ってもらった時にはとても嬉しかったのを思い出します。

雑色の家のすぐ近くには、空港線と大師線という2本の支線があります。
まさにご近所といえるほどの距離の近さなので、幼少時にはもう乗った経験があってもよさそうなものですが、実際に私がこの2路線に初めて乗車したのは中学生になったあたりでした。
両線とも私の子供の頃は車両が戦前製の230形から戦後製の400形や500形(大師線はその後さらに700形へ)に変わっていた頃だったようです。
今でこそ相互直通各社の8両編成の列車が頻繁に行きかう幹線にのし上がった空港線も、あの頃は3両編成の旧型車が線内を終日折り返し運転しているだけの「都会のローカル線」の風情が漂う路線でした。
一応当時の終点だった羽田空港駅からは空港ターミナルまで連絡バスが出ていましたが、私が初めて空港線に乗った時にははっきりと旅行客と分かる人は車内で見かけず、羽田空港駅も日本を代表するような空港の近くにあるとは思えない、静かなローカル線の終点という雰囲気の駅でした。

40年以上前の京急の思い出、次回も続きます。
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40年以上前の京急の思い出 その1 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
4か月ほど前、今も沿線に住んで利用している西武線の40年以上前の思い出をつづりましたが、今回からはさらにその前の生まれた直後は沿線に住み、その後も現在までずっとファンであり続けている京急(京浜急行)の、40年以上前の車両や列車の思い出を思いつくままに書いていきたいと思います。
なお記事中に出てくる車両の形式はすべてその当時(1970年代中頃から1980年代初頭ぐらいの時期)に京急線を走っていた車両のものであり、1000形や600形については現在活躍している車両とは異なりますのでその点ご了承ください。

このブログでもくどいくらいにたびたび書いてきたことですが、私が生まれてから3~4歳頃まで住み、その後も祖父母に会うために時折訪れていた家は京急本線の雑色駅から歩いて10分少々のところにありました。
当時雑色駅や駅近くの踏切で見ることのできる主な車両としては、当時の主力形式だった1000形、2扉セミクロスシート車の600形、4扉ロングシート車の700形、その700形の後継となる1978年末東上の新形式800形、それに都営地下鉄浅草線から乗り入れてくる都営地下鉄5000形でした。
正確に言えばこの他にも、戦前製の230形や戦後製の400・500形といった旧型車が支線運用などに使われていたほか、臨時列車で京成電鉄の車両が乗り入れてくることもあったようですが、私がこれらの車両を見かけることはほとんどありませんでした。
1000形は最速列車の快速特急(現在の快特)から都営地下鉄乗り入れの特急、さらには普通列車まで、支線の空港線や大師線を除くほぼ全線で見たり乗ったりすることができ、車両数も最多の356両が活躍していました。
ただそれだけに、特に幼い頃祖父にどこかへ連れて行ってもらうために京急に乗るときはたいていどこかで1000形に当たることになります。
1000形もマニアックな目で観察すれば、製造時期などによって細かな仕様の違いがいくつか見つかったようですが、まだ子供の私にはそのようなこともわからず、正直私にとってはやや見飽きた(乗り飽きた)車両という存在でした。
そんな1000形も、それから30年経過して引退が近づいてくると、一転して何度も狙って乗車や撮影をしに行ったりするようになったのですから勝手なものですが(笑)

そんな、ほんのちょっとホームで待っていればすぐにやってくる1000形の一方で、子供の私にとってちょっとした憧れの車両がセミクロスシート車の600形でした。
600形は当時、品川ー景品久里浜(現 京急久里浜)間を走る快速特急を中心に運用されていて、祖父に連れられて出かける時にはその600形の快速特急に乗れるかどうかがちょっとした楽しみでした。
しかし実際には、快速特急に乗れたとしても1000形に当たることが多く、600形に乗れたのは確か1~2回だけだったような記憶があります。
後になって知ったところによると、当時の600形は2扉セミクロスシート車という特性や性能上の問題からやや持て余され気味なところがあったようで、快速特急の全列車に運用するにも両数的に不足してしまうため、結果的に当時は1000形が快特に運用されるケースが多かったようです。
600形は京急での引退後6両が高松琴平電鉄に譲渡され、一部は予備的な存在ながら今も健在のようですが、前面形状の大改造と車内のオールロングシート化で京急時代の面影がかなり薄くなってしまったのは残念です。

次回も続きます。
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だってネタがないんだもん… [ノンジャンル]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:夏休みの絵日記に書いたこと

小学生の時の夏休みの絵日記、本当に苦手というか嫌いでした。
なぜって、40日間もの夏休み、絵日記に書きたくなるような出来事や面白い話など、そうそうたくさんあるわけでもないですから。
おまけに絵も下手だし文章を書くのもあまり得意でないので、小学生の頃は毎年絵日記が負担で負担でたまらなかった思い出があります。
当然というべきか、夏休みが始まった頃は何とか毎日その日に書こうとはしていましたが、日が経つにつれだんだんとサボり気味になり、結局毎年夏休み最終日が近づくと書くのをサボった日にあったことを必死に思い出してどうにか穴を埋める、というのがお決まりでした。
肝心の絵日記の内容といっても、特別にどこかへ行ったとか特筆すべきことがなかった日はほとんどが「今日も暑かった」とか「今日は学校のプールに行った」とかいった大して面白みのない分しか書くことができませんでした。

そういう記憶があるので、正直、絵日記を夏休みの宿題として全員に課すのは、果たして意味があるのかという気持ちもあります。
絵やイラストを描くのが得意だったり日記の文章表現の上手い人にとっては、絵日記をつけるモチベーションも高くなるでしょうが、私のようにどちらも自信がないという人には宿題というだけで気が重くなります。
おそらく絵日記が夏休みの宿題としてポピュラーなのは、長い休みで生活リズムが崩れるのを防ぎ、規則正しい生活を送るためだろうとは思いますが、そうであれば例えば、その日あった楽しかったことや嬉しかったこと、日々の生活の中で疑問に感じたり感動したりしたことを、ツイッターに投稿するように短い文でノートに書く、というやり方の方が、気負わずにできるという人も多い気がします。
そしてこのような一言日記のようなものは、何も夏休みだけでなく普段から取り組むこともしやすいので、日記をつけることの苦手意識はだいぶ軽減されると思うんですけどね。
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自分の興味とつながれば強みに? [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:小学校時代、得意だった科目は?

小学生の頃、得意な科目を聞かれたら、たいていは国語と社会と答えていた記憶があります。
国語の授業では、教科書を音読するのも好きでしたし(まあ上手い下手は置いておくとして)、漢字の勉強もそれほど苦手ではありませんでした。
もちろん作文や読書感想文は大の苦手だったし、漢字の勉強で同じ漢字を何十回と続けて書いたりするのもあまり好きではなかったけれど、それが国語嫌いにつながらなかったのは、幼い頃から絵本を読むことが好きだったり、鉄道の本などを通して少し年齢よりも大人寄りの文章を読むことに慣れていたせいかもしれません。
社会科も自分の興味や関心、生活に身近なテーマなど、勉強していても楽しい内容の授業が多く好きでした。
やはり、勉強も自分の趣味や関心を入り口にして始めると、あまり負担や苦痛を感じずにスムーズに頭に入っていき、教科自体も好きになれるということでしょうね。

そういえば、中学以降は齢を追うごとに苦手になっていった数学ですが、まだ科目名が算数だった小学生時代はそれほど苦手ではなく、どちらかといえば好きな方に入る科目でした。
「算数」の時代は計算問題もシンプルで簡単なものが多いし、算数で習う内容と、買い物や物のやり取り、時間など日々の生活とのつながりを実体験できる場面も多いことが、算数に親しみを感じられていた理由だったかもしれません。
そして中学以降、数学が自分には何となく距離のある科目に感じる場面がどこかにあって、それ以来数学が苦手になって言った気がします。
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【鉄道中心】40年前の磐梯家族旅行の思い出 その3 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。
40年前の1982年の夏休みに、私と家族、それに父親の同僚のWさんの一家と福島県の番台地方へ家族旅行へ出かけた時の思い出、今回も続きます。

2家族での旅行最終日は、2晩宿泊したペンションをチェックアウトした後、車で少し走ったところにある陶器の工房に出かけました。
ここでは皿などの絵つけの体験ができるということで、私たちも体験してみることになりました。
私は丸くて平たいさらに絵を描くことになりました。どんな絵を描いたのかは忘れてしまいましたが、もともと絵が下手な上に慣れない陶磁器に描くということで、かなり微妙な出来栄えのものになってしまったように記憶しています。
それでも、後日工房から自宅に届いた自分の「作品」にはそれなりに愛着がわいたものでした。

絵付け体験が終わり、お昼を食べたりお土産を購入したりしたら、いよいよ番台地方ともお別れです。
喜多方駅から乗車したのは、キハ58系気動車による急行「あがの」でした。
この列車でも乗車したのはグリン車キロ28形でした。おそらく普通車よりも座席確保がしやすいという理由からだったのかもしれませんが、単純に「グリーン車=豪華」という感覚のあった子供心には、立て続けに2回もグリーン車に乗れたというのは何だかすごいことのような気がしました。
結果的には、行きの「ばんだい」で乗車したサロ455形もこのキロ28も、乗車体験はこの旅行での1回だけだったので、そういう意味では貴重な経験となりました。
「あがの」は仙台行のため、関東へ帰る私たちは郡山駅で下車。
そしてここまで一緒だったWさん一家とはここでお別れとなりました。
郡山駅では乗り継ぎ時間に少し余裕があったからか、ホームや跨線橋の窓から駅構内に広がる客貨車区などの側線群をしばらく眺めることができました。
茶色い旧型客車やたくさんの貨車が構内にひしめく光景は、鉄道好きの小学生にはとても楽しいもので、線路も大幅に整理され車両の姿もあまりない近年の同じ場所の状況を思うと懐かしいものがあります。

さて、郡山から乗り継いだのは、大宮ー盛岡間暫定開業から1か月が経過したばかりの東北新幹線。
やはりこの時期に東北方面へ家族旅行へ出かけるなら話題の新幹線にはぜひ乗りたい(あるいは私を乗せたい)と考えたのか、それともむしろ新幹線に乗りたい(乗せたい)がために家族旅行を企画したのか、父親の狙いはよくわかりませんが、いずれにしても小学生ゆえ大人ほど気軽に新幹線に乗りに行くことも難しい身にはかなり嬉しいことでした。
乗車したのは、号数は忘れてしまいましたが郡山を16時前後に発車する「やまびこ」。
ホームに滑り込んできた200系の姿は、鉄道雑誌やらテレビやらでもうすっかり見慣れたものでしたが、生で見るとやはり新鮮な感動がありました。
そして走り出してみれば揺れの少なさは噂通りで、当時テレビで東北新幹線を取り上げる時によく流れていた、座席背面テーブルなどに立てた煙草が倒れないという映像を父親が真似してみせた時にも見事にしばらく立ったままの状態を維持していました。
しばらく座席で乗り心地を味わった後、私と父親は7号車(だったかな?)のビュフェへと向かいました。
このビュフェにはデジタル表示のスピードメーターがあり、それを見に行くのが目的でした。私としてはせっかくビュフェへ行ったのなら何か食べたい気満々でしたが、食事にはやや中途半端な時間ナタメかそれは許されず、私の食堂車・ビュフェでの食事初体験はお預けとなってしまいました。
結果的にその後も他の路線も含め新幹線のビュフェを利用する経験には恵まれず、せめてあの時ミックスサンドとジュースあたりでもいいから味わうことができていたら、よりいい思い出になったのではないかと惜しまれます。
ちなみに肝心のスピードメーターの方は、10分ほどビュフェにいた中では200㎞/h越えの表示は見ることができず(当時の東北新幹線の最高速度は210㎞/h)、最高でも190㎞/h前後だったように記憶しています。

初めて乗る東北新幹線に興奮しているうちに、「やまびこ」はあっという間に終着の大宮駅に到着。
ここまで新幹線に乗って来たのなら、ぜひ当時上野ー大宮間で運転されていた新幹線連絡列車「新幹線リレー号」にも乗ってみたい所でしたがさすがにそれはできず、川越まわりで自宅へ帰るため、当時まだ地上にあった川越線ホームへ向かいました。
当時の川越線はまだ非電化で、キハ30・35形による気動車列車が運転されていました。運転本数も今ほど多くなく、都内から30~60圏内を走るとは思えないほどローカル線ムードの感じられる路線でした。
この日乗車したのもキハ35系の6~7両くらいの編成の八高線直通東飯能行でした。
大宮駅発18時頃の列車とあって車内は立ち客も多い混雑ぶりでしたが、それでも都内へ向かう路線と比べれば込み具合もさほどではありませんでした。
大宮駅を発車してエンジンをうならせながら走りだすと、その走りとロングシートで混雑した社内とのギャップがとても新鮮でした。スピードも電車化された現在と比べ遅く、この路線(大宮ー川越間)がその後、当時は「通勤新線」と仮称されていた埼京線と直通運転して池袋・新宿・渋谷まで乗り換えなしで結ばれただけでなく、さらに横浜市内を経由して相鉄の海老名駅まで1本のレールでつながることになろうとは、全く想像もつかないのどかさでした。

大宮から30分ほどで到着した川越駅では、私たち一家も含め多数の人が下車し、列車の方もそれを反映してか私たちの乗っていた車両を含む後部2~3両がここで切り離されました。
川越止まりの車両を切り離した後、東飯能へ向かう編成の最後部になった車両は、国鉄型気動車では珍しいステンレス車のキハ35系900番台でした。すでにこの時代には車体全体が「タラコ色」の一色塗装になっていましたが、昭和のステンレスカーならではの前面や側面のコルゲートはそのまま残されていて、この車両を見る(撮る)ことができただけでも、今思うとかなり貴重な経験ができたと感じます。まだ自前のカメラを持っていなかったので父のカメラを借りてこの時撮影した写真の中には、その川越駅川越線ホームから撮影した東武東上線の8000系電車の写真もありました。
その時はたまたまやって来たからというだけで特に何も考えずシャッターを切りましたが、「セイジクリーム」色の塗装と「東部顔」と呼ばれる前面形状という当時の東武鉄道の通勤型電車の姿がよくわかる、今となってはこれも貴重な記録になりました。

以上、40年前の磐梯家族旅行の思い出でした。予想通り、純粋な家族旅行の思い出よりその行きかえりの列車の思い出の分量の方が圧倒的に多い結果になってしまいました。すみません。
でも、こうして久しぶりにこの旅行のことを思い出してみるとやはり懐かしく楽しいものでした。
また「鉄」目線で見ても、この時乗車した車両は40年後の今はもう乗ることのできない者ばかりで、東北新幹線「やまびこ」以外は列車としても過去の存在になっているなど、時の流れを感じさせられます。
それでも、東北新幹線暫定開業40周年というタイミングでその当時の思い出を振り返ることができたのは、やはり楽しかったです。
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【鉄道中心】40年前の磐梯家族旅行の思い出 その2 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。
40年前の1982年の夏休みに、私と家族、それに父親の同僚のWさんの一家と福島県の番台地方へ家族旅行へ出かけた時の思い出の続きです。

大宮駅から乗車した急行「ばんだい」で喜多方に着き、近く?のペンションに泊まった翌日、いつもよりゆっくりと朝の時間を過ごした後は、レンタカーでの周辺へのドライブに繰り出しました。
もっとも我が家は両親とも免許を持っていないため、Wさんと奥さんがそれぞれ運転する車に分乗という形になりました。
喜多方や会津若松の街を走り、着いたのは猪苗代湖。
ここでは湖畔を少し散策した後、貸しボートに乗ることになりました。
貸しボートの事務所にはレンタルの釣竿がありエサも売られていたので、父親とWさんとで一本ずつ釣竿を借り、それぞれのボートで釣りを楽しもうということになりました。
といっても、私は父親が釣りをしているのを見たことがなく、過去釣りの経験があるという話も聞いたことがありませんでしたが、ともかく釣り竿を抱えた父親とともに私と家族はボートに乗り込みました。
父親は乗っている最中ずっと湖面に釣竿を垂らしていましたが、何か釣れたというような記憶はありません。
途中で私や妹にも釣竿を持たせてくれましたが、2人とも釣果なしだったと思います。
私自身もそれまで釣りの経験がなく、なぜ釣れなかったのか原因はわかりませんが、父親の方は家族の前でいいところを見せられずがっかりしたことでしょう。
あれ以来、父親も私も、そして他の家族も釣りをすることはなかったなあ…
そんなちょっと残念な場面もありましたが、全体的には楽しいドライブを終えて再び宿泊先のペンションに戻り、この日は終了となりました。

次回、旅行最終日を振り返ります。
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【鉄道中心】40年前の磐梯家族旅行の思い出 その1 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:家族旅行の思い出

私たちの一家は、そう頻繁に遊園地などへ出かける方ではなかったし、両親とも免許を持っていなかったので、休日に家族でドライブ、なんていうこともありませんでした。
しかし、私がまだ小学生で5歳年下の妹がまだ幼かった頃は2~3回ほど家族で泊りがけの旅行に出かけたことがあります。
今回からはその家族旅行のうち、ちょうど40年前の1982年の夏休み(正確な日付は忘れてしまいましたが、おそらく夏休み前半だったと思われます)に福島県の磐梯方面へ出かけた時の思い出を振り返りたいと思います。
(正確には、私たち一家と父親の同僚のWさんの一家との2家族での旅行になりましたが)
この旅行では、磐梯地方の観光地にもいくつか足を延ばしましたが、まだ小学生の私にとっては正直それらについての関心がいま一つだったからなのか、観光地や宿泊した宿(ペンション)での思い出よりも、むしろ現地への行き帰りに乗車した列車の思い出の方が鮮明に残っているのが実情です。
そこで今回は、家族旅行の思い出というよりは40年前の夏休みの列車旅の思い出というような色彩の方が濃くなってしまうことをお許しください。

旅行の初日は、ほぼこの旅行で2泊するペンションへの移動日になりました。
午前中に自宅を出て、(おそらく)タクシーで大宮駅へ。
この旅行の時点で、東北新幹線はすでに大宮ー盛岡間暫定開業から1か月ほど経過していましたが、開業直後の夏休み中とあって指定券が取れなかったからか、大宮発12時半過ぎの喜多方行急行「ばんだい」(号数は忘れてしまいましたが、時間帯から考えて3号か5号だったと思われます)に乗車しました。
「ばんだい」は当時上野ー会津若松・喜多方間を結んで走っていた交直流急行形電車455系による電車急行でした。
東北新幹線先行開業時のダイヤ改正で在来線特急にはすでに「やまびこ」全廃や「ひばり」削減などの影響が出ていましたが、新幹線がまだ大宮暫定開業ということもあり、まだまだ東北線の電車急行も最後の活躍を見せていた頃で、今にして思えば乗車できたことは貴重な経験だったと思います。
乗車したのはなぜかグリーン車のサロ455形で、ごく普通のサラリーマン家庭ゆえグリーン車などなかなか縁のない存在と思っていた私にはかなりのサプライズでした。
旅行を計画した父親としては途中の宇都宮駅からWさん一家が子供連れで乗車することを考えて、座席確保ののためおそらく指定席だったと思われるグリーン車を選んだのかもしれませんが。
何はともあれ、私にとっては初めてのグリーン車体験とあって、緊張するやらわくわくするやら複雑な心境でした。

車内に落ち着いて家から持ってきたおにぎりやら玉子焼きやら鶏からの昼食をとったところで、13時半過ぎに到着の宇都宮駅でWさん一家が合流。ガラガラのグリーン車の中で私たちのいる一角だけがにぎやかになりました。
黒磯を過ぎて交流電化区間に入ると、道中ですれ違ったり沿線各地で出会う車両たちも、比較的見慣れた感のある115系や485系、貨物列車牽引のEF65PFなどから、関東にいては見ることのできないED75牽引の旧型客車による普通列車など、東北に初めてやってきたという感慨がわく車両へと変わりました。
鉄道好きの私にとっては車窓を眺めていればそこそこ間は持ちますが、やはり大宮―喜多方間5時間弱の旅ともなると、特に妹やWさんの子供といった小さい子にとっては2時間ほどもするとだんだん飽きがきてしまいます。
そんな時、ちょうどうまい具合に車内にやってきたのが、弁当や土産物、飲み物などを扱う一般的な車内販売ワゴンとは別に乗っていた、アイスクリーム専門の車内販売員のおじさん。
そして、私の母親が、そのおじさんから私も含め子供たち全員にバニラアイスクリームを買ってくれました。
この時食べたバニラアイスは、あの「新幹線すごく固いアイス」のようなものではなく、普通にスーパーや食料品店(当時まだコンビニは少なかった)などで買えるカップアイスとそう大きな味の違いのないものだったと記憶しています。(もちろんスーパーなどで買えるものとは全く違う商品でしたが)
この時は単なるアイスクリーム好きの子供として、特にこれといった感慨もなく食べたごくありふれた味のバニラアイスでしたが、なぜかこの一コマは今でも私の思い出に鮮明に残っています。

郡山駅で上野から併結して共に走ってきた別の急行(おそらく仙台行の「まつしま」あたりだったと思います)との切り離し作業のため長めに停車し、東北本線から磐越西線へと入っていきます。
磐越西線でも、この線でしか見られなかったED77牽引の旧型客車やキハ58系などとの出会いを楽しんでいるうち、17:20過ぎに「ばんだい」は終着喜多方駅に到着。
駅前に迎えに来ていた宿泊先のペンションの車(マイクロバス?)に乗ってペンションへ向かい、この日は終了となりました。

ところで、今にして思えば悔やまれるのが、昭和59年まで喜多方駅で磐越西線から分岐して熱塩(あつしお)という駅までの間を結んでいた「日中線」というローカル線に乗ることができなかったこと。
この日中線は、その線名に反して一日の列車本数が朝・夕・夜に1往復ずつの合計3往復しかなく日中の運転がないことで有名でした。ちなみに日中線という線名は、熱塩から先にあった延伸計画区間にある日中温泉という温泉からとったそうです。
日中線の、1980年代に国鉄改革が叫ばれる中で赤字ローカル線として廃止対象とされたことによる廃止とバスへの転換は昭和59年4月1日なので、この磐梯旅行の時点ではまだ運転が続けられていたわけです。
当時の日中線のダイヤはわかりませんが、私たちが喜多方駅に着いた時間を考えると、もしかするとその気になれば日中線に乗りに行ける状況だったかもしれません。
まあ、家族旅行中ゆえ私のわがままで勝手に家族から離れて単独行動をするわけにもいかず、また当時の私はまだ小学生だったせいかローカル線やそれをめぐる諸問題にはあまり関心がなかったようで、日中線の存在や廃止対象になっていることは何となく知ってはいたものの、乗っておこうという考えにはおそらく至っていなかったと思われます。
そう考えると、にわかに「もしあの時、わがまま勝手は承知で日中線に乗りに行っておけばよかったかもしれない」という思いが沸き起こってきます。
そして、もしあと10年早く生まれていたら必ずや乗りに行ったのに…といういつもの無いものねだりの気持ちになってしまうのです。

話が横道にそれてしまいましたが、次回は旅行の2日目編です。
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年令とともに好みも変わる? [ノンジャンル]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:コーヒーはホッと派?、アイス派?

コーヒーはホッとであろうがアイスであろうが基本的にどちらも好きなので、どっち派かを決めるのはかなり難しいです。
しいて言うなら、時間帯やその時の気温、気分次第でホットにするかアイスにするかを決めることが多いです。

朝はほぼ毎日朝食時にホットコーヒーを飲んでいるためか、朝だけは夏でもアイスよりもホットの方を飲みたい気分になります。
逆にドトールなどのようなスタイルのカフェでコーヒーを飲む時は、よほど寒い日でもない限りアイスを頼むことが多いです。
こちらの理由は自分でもよくわからないけれど、そういった店に入るときには時としてあまりゆっくりくつろいでもいられないような時もあり、そんな時でも早く飲めるようにアイスを飲むことがあったからというのもあるかもしれません。
それでも、年齢とともに好みも少しずつ変わってくるのか、最近はホットコーヒーをゆっくり味わいながら飲むことも好きになってきました。
決してコーヒーに対するこだわりが強くなったりコーヒーの知識が増えたりといったことはないけれど、夏以外の時期はたまにゆっくり喫茶店でホットこーひを味わう、そんな時間に憧れたりするようになりました。
まあ、本物のコーヒー通といわれる方々からすれば、銘柄ごとの味の違いなど全く区別がつかない私などまだまだ素人なんでしょうけど。
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酒飲まないからなあ… [ノンジャンル]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:好きなお酒の種類は?

うーん、これは個人的に結構な難問です。
なぜなら、あまりにも酒を飲む機会が少ないために、どれが好きでどれが嫌いなのか、自分でも判断しずらくなっているためです。
基本的には、酒は嫌いではありませんし、穏やかに楽しく飲んでいる分には飲み会や、友人・知人などとの酒を飲みながらの食事の雰囲気も好きです。
ただ、もともと酒に強い興味があるという人間ではなく、自分から飲みに出かけたり他人を飲みに誘ったりすることがないなど、積極的に酒を飲もう、飲みたいと思ったことがほとんどないのが私の実情です。
一応、ビール・日本酒・ワイン・焼酎・酎ハイ・ウイスキー・ハイボール・サワー・カクテルなど、ひととおりの種類の酒を飲む機会はありましたが、正直どれが一番好きとか苦手なのかとか、自分にもよくわかりませんし、例えば同じビールでもこの銘柄は好みであの銘柄はどうも…といった違いも判りません。

酒好きの人から見れば、こんな私のような人にはかなりイライラを感じるんでしょうね。
どんな酒であれ、好きなら好き、苦手なら苦手と態度をはっきりしろ!と。
まあ、今さら無理やり酒好きになろうとも思わないし、別に酒を飲まないことで人生損してるとも思わないけれど、たまには気の合う誰かと久しぶりに一杯、なんてこともしてみたいですね。
タグ: 飲み会
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