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【乗り物中心】九州修学旅行の思い出 その4 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。
34年前の九州への高校の修学旅行の思い出、最終回です。

修学旅行4日目の朝、熊本市内の宿を出た私たちは、まずはバスで熊本城へ向かいました。
バスでの移動距離はわずかでしたが、その大半で熊本市電も走る道路を走りました。
朝のラッシュ時とあって数両の電車と並走したりすれ違ったりする中、路面電車ファン的にラッキーだったのが、当時熊本市電唯一の連接車であった5000形(元 西鉄福岡市内線1000形)と少しの間並走したこと。
5000形は現在も西鉄時代の塗装に復元された1編成が現役のようですが、私が出会った当時も基本的には朝ラッシュ時などの多客時限定の運用となっていたので、乗車できないまでも見ることができただけで何だか得をした気分になりました。

熊本城を見学した後は、今夜の宿泊地長崎へ移動します。
熊本から長崎へは、天草半島を経由してフェリーで島原半島へ渡り、そこから長崎市内へ向かうというルートをとりました。
熊本城から天草の鬼池港へ向かう途中の国道には、JR九州の三角線と並行する区間があり、ラッキーにも単行のキハ31と2~3分ほど並走する場面もありました。
結局この修学旅行中にJR九州の列車の姿を眺めることができたのはここだけでした。
現在のように個性的な列車が多数走る時代にはまだなっていなかったものの、鉄道ファン的には少々物足りなくもありました
それでも、九州でしか見ることのできなかったキハ31に遭遇できたのはラッキーな時間でした。
鬼池校から島原半島の口之津港まではこの旅3度目のフェリーの旅となりました。
鬼池校から30~40分ほど乗ると口之津港に到着し、フェリーに積載していたバスに再び乗り長崎市内へ向かいました。
島原半島の中で具体的にどのあたりを通過したのかはあまり記憶にありませんが、おそらく終始車窓には雲仙普賢岳の姿も見えていたことでしょう。普賢岳の噴火や火砕流災害があったのはその翌年から翌々年にかけてのことで、通過した場所の中にはそれらの災害によって大きく姿を変えた場所もあるかもしれません。
いずれにしてもこの時期に島原へやってきたのは今から思うとかなり貴重な経験だったようで、今思うともっとよく景色を目に焼き付けておけばよかったと思います。
夕方近くなって長崎市内に入り、あとは市内のホテルへ向かうだけになりました。
しかし夕方のラッシュ時間帯に入って道路の混雑も激しいようで、バスはなかなか渋滞から抜け出せません。
バスの進行方向右手には、長崎駅前方面と赤迫方面とを結ぶ長崎電気軌道(路面電車)が通っていて、そこを走る電車がひっきりなしに現れてこちらとすれ違ったり追い抜いていく姿を見ることができました。
バスガイドさんはもちろん長崎の路面電車についても説明してくれたので、バスの窓からは多くの生徒が外を注目し、渋滞のイライラを忘れさせてくれました。
こうして、九州で路面電車が走っている3つの都市で路面電車の姿を初めて生で見ることができました。
残念ながら3都市とも実際に電車に乗る機会はありませんでした。でも、バスガイドさんはいずれの都市でも簡単に路面電車の紹介をしてくれ、路面電車が観光の面でも地域に根付いていることが感じられてファンとしては嬉しい限りでした。
ホテルでの夕食後は、長崎に落とされた原爆で被爆された方から体験を聞く会が開かれました。体験を話してくださった被爆者の方の語りからは、私たちが想像もつかないような悲惨な被爆の実態が感じられ、改めて原爆や戦争のない世界を築いていかなければならないという思いを新たにしました。

翌日は修学旅行最終日。
ホテルをバスで出発してカステラの工場(メーカー名は忘れてしまいましたが)を見学して、いろいろ変った味のカステラを試食したり工場直売品のお土産を購入したりしました。
その後は佐賀県を素通りして一気に福岡空港近くへ向かい、お土産屋さんで最後の九州土産の買い出しをし、空港へ向かいました。
福岡空港から羽田空港まで乗ったのは、確かJALのボーイング747だったと思います。
羽田までの約1時間40分ほど、修学旅行のあれこれを思い出しながらイヤホンで落語など聞いて過ごしていましたが、途中で気流の関係か、かなり揺れた場面もありました。
しかし飛行機は無事に羽田空港に到着。荷物を受け取った後空港の到着ロビーで解散となり、修学旅行は無事終わりました。

この修学旅行では、訪問した九州のいろいろな観光地はもちろん、道中で乗ったり目撃したりした乗り物も大きな思い出になりました。
鉄道以外の交通機関の状況はあまりよくわかりませんが、鉄道車両に限って言えばその時乗車したり見た車両の中には今はもう思い出の車両となったものも多く、改めて30年以上の時の流れを感じます。
今後もし機会があれば、この修学旅行のルートをバスやフェリーなども駆使しながらもう一度旅してみるのもいいかな、などとも思っています。
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【乗り物中心】九州修学旅行の思い出 その3 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。
34年前の九州への修学旅行の思い出、続きます。

大阪南港から鹿児島県の志布志港へ向かう夜行フェリーに乗船した私たちは、フェリーの桟敷席のカーペットの上で雑魚寝状態で修学旅行最初の夜を過ごしました。
やや波が高かったのか船は少し揺れていましたが、船酔いを起こすような強いものではなく、初めての船中泊ながら私はそこそこ眠れたと記憶しています。
朝目覚めると、相変わらず波の高い状態は続いているようでしたが、天気は良好でした。
朝食は確か指定された時間内に各自船内の食堂に食べに行く(メニューは全員一緒)という方法だったと思いますが、船の揺れや慣れない船中泊のためか、あまり私たちの中で朝食を食べている人は多くなかったようでした。
フェリーは8時半から9時頃に志布志港に到着し、私にとっては初の九州への上陸となりました。
ここからは最終日の福岡空港到着まで、基本的にはすべて貸し切りバスでの移動となります。
まず初日は志布志港から宮崎県串間市の都井岬に移動し、御崎馬(みさきうま)という国の天然記念物に指定されている日本在来馬とふれあいました。
何という名前だったかは忘れてしまいましたが、かなり大規模な広場のような場所で馬と間近で触れあうことができましたが、中には私の後方から鼻先をぶつけてくる馬もいたりして、普段馬と接する機会のない私にとってはなかなか面白い経験でした。
御崎馬としばし戯れた後は、日南海岸などを観光してその日は青島のホテルに宿泊しました。

翌日の3日目はバスで鹿児島県内へ移動し、島津家別邸「仙巌園」(「磯庭園」ともいう)や城山などを巡り、鹿児島市内に宿泊。
さらに翌日は桜島にも足を延ばし、もちろん桜島へのフェリーにも往復乗船しました。
鹿児島市内の移動中には2回ほど鹿児島市電と交差したり併走したりする場面もありました。
当時の鹿児島市電は現在のように低床車や洗練されたスタイルの車両更新車が幅を利かす少し前の時代でした。
それぞれほんの一瞬の時間でしたが、前日はほぼ鉄道との出会いのない一日だったので、鉄道好き的には楽しい一瞬でした。
桜島観光の後はそのまま熊本へ移動しました。どのようなルートで熊本へ向かったのかは記憶にありませんが、阿蘇山に近い地域も通ったような記憶はあります。
この日は熊本での見学などはなく、おそらく宿泊する熊本市内のホテルにまっすぐ向かったと思われます。

次回、最終回です。
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【乗り物中心】九州修学旅行の思い出 その2 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。
34年前の九州への修学旅行の思い出、前回からの続きです。

東京駅から新幹線0系「ひかり」で新大阪駅に到着した私たちは、ここから貸し切りバスで志布志港行のフェリーが出る大阪南港へ移動します。
新大阪駅から大阪南港へは大阪市営地下鉄(現 大阪メトロ)の御堂筋線・四つ橋線・新交通システムのニュートラムを乗り継ぐコースでも行け、私個人の旅だったら間違いなくこちらを選ぶでしょう。
ただ、さすがに400人近い高校生が都心の地下鉄や輸送力の小さな新交通システムの車内になだれ込むのも無理があるというもので、バス移動ということになりました。
個人的にはニュートラムには乗ってみたかったですが(笑)

新幹線を降りた私たちは、駅の外に出て団体専用の大型バスの駐車場に移動し、大阪南港まで乗る貸し切りバスがやってくるのをクラスごとに並んで待ちます。
特にこれといってすることもなくぼ~っと立っていると、突然駐車場の向こうの方に黄色い電車がやってきました。
突然のことで驚きましたが、どうやら団体用駐車場のそばを新大阪駅近くにある車両基地(当時の宮原客車区や宮原電車区)へ向かう回送線が通っていたようです。
そして、やってきたのは当時JR宝塚線(福知山線)の大阪―新三田間で運用されていた宮原電車区(当時)のカナリアイエロー色の103系だったというわけです。
関東ではこの時代も中央・総武緩行線や南武線で大活躍していたカナリア色の103系も、関西で見られるのはJR宝塚線の車両だけで、貴重な存在でした。
そういう車両を見ることができたということで、退屈なバス待ちの時間が急に楽しい時間に変わりました。
周囲では、「何で大阪に総武線が走ってるの?」という声も上がっていました。確かに私たちのような西武沿線民にとっては、黄色い電車といえば西武線か総武線というイメージが強いので、事情を知らない人にとってはびっくりだったことでしょう。
103系が走り去って2~3分ほどすると、103系とは逆方向へまたたった1両の列車が通過しました。
この時やってきたのは、岡山を拠点にに活躍していた12系客車改造のジョイフルトレイン「ゆうゆうサロン」の専用機関車として活躍していたEF65123号機で、客車を牽引しない単機での快走といったところでした。
同機は当時、「ゆうゆうサロン」の客車と同色の茶色ベースに金色帯という姿になっていました。
この機関車も関東ではなかなかお目にかかれない車両の一つだっただけに、103系以上にラッキーな遭遇となりました。
こちらにも周りからは「あれ?この電車1両だけで走ってる!」という声がどこからともなく上がっていました。
おそらく遠目には電車と機関車の区別がつかなかったのでしょうし、そもそも鉄道車両はすべて「電車」と呼ぶ人だったのかもしれませんが。
いずれにしても、単なる通過点のはずの大阪で、思わぬ「見る鉄」ができたのはとても大きな思い出の一つになりました。
残念だったのは、せっかくの貴重な出会いを全く撮影していないこと。確かこの修学旅行にはカメラの持参も許可されていたような記憶がありますが、あまりに突然のことでカメラを取り出す余裕が全くなかったのが正直なところでした。
カナリアイエローの103系もEF65 123号機も、今はもうすでに過去の車両となってしまっただけに、この時たとえ下手でも撮影できていれば…と悔やまれます。

さて、時間にすればせいぜい10数分ながら濃厚な鉄分補給の後(私のような鉄道好きだけでしょうが)、予定通り貸切バスに乗り込んで大阪南港へ向かいました。
新大阪駅から40~50分くらい(正確なところは覚えていませんが)で大阪南港のフェリーターミナルに到着し、今夜の宿でもある志布志港行きのフェリーに乗船です。
これも正確な時刻は忘れてしまいましたが、18~19時台くらいに大阪南港を出港し、私にとっては初めての長距離フェリーの旅が始まりました。
席はカーペット時期の桟敷席で、ここにクラスや班ごとといった単位で雑魚寝する形でした。
夕食にどんなものを食べたのかは覚えていませんが、おそらく船内の食堂をほぼ貸切状態にして食べたのだと思われます。
夜行フェリーに乗ったからにはぜひデッキに出て外の空気を吸ったり、夜の海や星空などを眺めてみたくなるものですが、この時にはそういった記憶がありません。
先生方からデッキに出ることを禁じられていたのか、それともまだ寒い3月ということでデッキに出なかっただけなのかは、今となっては定かではありませんが…
そんなこんなで、まだ九州に着いていないのに私としてはかなり濃密な思い出の残った修学旅行初日も終わり、カーペットの上で就寝となりました。

次回に続きます。
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【乗り物中心】九州修学旅行の思い出 その1 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:修学旅行どこ行った?

50代ともなると、修学旅行もすでに30年以上前の遠い思い出になってしまっています。
修学旅行でどこへ行ったかといえば、小学校が日光、中学校が佐渡島、高校が九州でした。
日光は当時(40年前)も今も関東地方の小学校の修学旅行の行先としては定番らしいですし、九州も修学旅行先の大定番のようですね。
ただ今でも謎なのが、なぜ中学時代の行先が佐渡島になったのかということ。
私が中学の修学旅行で佐渡に行ったと言うとほぼ全員に不思議がられます。
関東の中学校の修学旅行先の定番はおそらく京都・奈良あたりなんでしょうけど、どうしてその定番を外したのか…?
まあ、佐渡金山を見学したり島内の絶景スポットに行ったり、新潟港と佐渡の両津港の間は片道が普通のフェリー、もう片道はジェットフォイルに乗れたりで、結構楽しかったんですけどね。

そして、今回は高校時代の修学旅行の思い出を記していきたいと思います。

「平成」が始まってちょうど2か月経った1989年3月上旬から中旬にかけて、当時高校2年生だった私は、通っていた高校の九州への修学旅行に参加しました。
日程は5泊6日(うち船中1泊)でした。
埼玉県内の高校を出発し、新幹線と長距離フェリーを乗り継いで鹿児島県の志布志港から九州に上陸。
そこから時計回りに九州をほぼ一周(ただし大分県には足を踏み入れず、佐賀県内も通過するだけ)し、福岡空港から飛行機で帰路につくというコースでした。
もちろん修学旅行ですから九州各地で見学などの思い出もいろいろできましたが、30年以上も前の話となるとやや記憶があやふやな部分も出てきてしまいます。
それよりも、九州への行き帰りや九州内で乗った(または目撃した)乗り物の思い出の方が鮮明に残っています。
そこで、この九州への修学旅行の思い出を、道中の乗り物の話を中心に振り返りたいと思います。

修学旅行初日は、自宅から一旦通学していた高校に集合。
高校は西武線某駅が最寄りのため、まずは西武線と山手線を乗り継いで東京駅へ向かいました。
私たちの学年は400人近く生徒がいたと思いますが、西武線・山手線ともに移動時はおそらく貸切列車利用とはせず、クラス単位で2~3班に分かれて一般の定期列車に乗車する形をとったと思います。
東京駅からは、東海道新幹線で新大阪へ向かいます。
今も昔も、修学旅行で新幹線を利用する学校の中には修学旅行専用列車を利用する学校も多いようですが、私たちは通常の「ひかり」利用でした。
もちろんこの時代に「ひかり」を利用するとなれば、当時の最新形式である100系に乗れると期待してしまいます。(事実、私以外にも同じことを考えていた人は多かったようです)
でも実際に乗車したのは0系で、この時は少々残念な気持ちにもなりました。
しかし、結果的には山陽新幹線区間も含め、私が0系「ひかり」に乗車したのはこの時が最初で最後となり、これはこれで貴重な思いでとなりました。
乗車した「ひかり」(号数は忘れてしまいましたが)の東京駅発車は12時台(これも正確な時刻は失念)で、この時間の出発とあれば食堂車も利用したくなります。
しかし修学旅行中とあってはそうもいかず、各自自宅から持参した弁当で昼食となりました。
弁当を食べた後は友達とおしゃべりしたり眠ったり、新大阪までの約3時間、各自それぞれ思い思いに過ごしていました。
そんな中、鉄道好きの私は終始流れる車窓に釘付けとなり、眠気を覚えることもありませんでした。
特に熱海以西は初の乗車となるので、見るものすべてが新鮮でした。
当日富士山がよく見えたかどうかの記憶はあやふやですが、新大阪までの道中で出会った鉄道車両たちの姿は大いに楽しむことができました。
地点は思い出せませんが、静岡県内の東海道本線との並行(交差?)区間ではEF65一般形が牽引する貨物列車を目撃、名古屋付近では名鉄7000系「パノラマカー」や1000系「ぱのらまsuper」等の名鉄電車を短時間のうちに何編成も目撃できました。
京都駅では高架上から構内に留置中のスカイブルーの201系を見て「いよいよ関西までやってきた」という感激に浸り、大山崎付近(京都ー新大阪間)の阪急京都線との併走区間では期待通り阪急電車とのすれ違いを見ることもできました。(期待していた当時の特急車6300系ではなかったけれど)
そんなこんなで新幹線の車窓に興奮が収まらないまま「ひかり」は新大阪駅に到着しました。
長い乗車で「付かれた~」とこぼしている人も周りにはいましたが、私にとっては本当にあっという間の3時間でした。
まだ九州にも渡っていないのに、修学旅行の最初の思い出ができてラッキーな気分でした。
この後新大阪駅からは、貸切バスを利用して大阪南港へ移動し、志布志港行きの夜行フェリーに乗り継ぐことになりますが、その貸切バスに乗る前に、またしても鉄道好きの私を興奮させる光景に出会いました。
そのあたりはまた次回に続きます。
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80年代のアイドルはやっぱりすごい! [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:生まれて初めて好きになったアイドルは?

生まれて初めて好きになったアイドル…
それが誰だったか、正直ほとんど記憶がありません。
世代的にはキャンディーズやピンクレディーが初めてのアイドルの記憶になりそうにも思えますが、キャンディーズに関してはテレビも含めてリアルタイムでパフォーマンスを見た記憶はなく、ピンクレディーもテレビの番組やCMに出ているのを見ることはあっても、意識して歌番組を見たり歌を聞いたりなどといったことはほとんどありませんでした。
少なくとも小学4年生ぐらいまでの私は、音楽や歌にはあまり興味がなく、テレビの歌番組もほとんど見ていなかったのが、当時のアイドルにハマらなかった理由かもしれません。
キャンディーズやピンクレディーなどの後を受けて登場した松田聖子や中森明菜などにもそれほど関心はなく、あえて言うなら後年小泉今日子がちょっと好きになったぐらいでした。
それが変わるきっかけになったのが、小学5年生の時に父親から中古のラジカセを譲ってもらったことでした。
このラジカセでラジオを聴くことにハマってからは、番組内でよく流れるアイドルの曲も自然に耳に入ってくるようになりました。
そして昔も今もアイドルは冠番組やワイド番組のゲストなどでたくさんラジオに出ているので、そこで最新の局だけでなく楽しいトークを聴く機会も増え、特定の「推し」(もちろん当時はそんな言葉はなかったけれど)はまだいなかったけれど、少しずつアイドルに興味が持てるようになっていきました。
そんな中で、初めてはっきり意識して「推し」「箱推し」するアイドルになったのが、おニャン子クラブやそこからソロやユニットでデビューした人たちでした。
たまたま別の番組のCM中にちらっと見た「夕やけニャンニャン」に一発でハマり、おニャン子クラブも好きになりました。
コンサートに頻繁に行ったり、ファンクラブに入ったり、グッズや関連の商品をせっせと買い集めるところまではいかなかったけれど、それでもレコードやCDは少しだけながら買っていたし、「夕やけニャンニャン」の観覧希望のはがきも何度か送りました。(結局一度も当たらなかったけど)
もちろんメンバーが出演するテレビやラジオもできる限りチェックし、それらによってますますおニャン子にハマっていきました。
それ以来ずっと、その時々のアイドルの同好にいつも関心があり、もちろん好きになったアイドルもたくさんいました。
そして今のアイドルの中にも、AKBグループや坂道グループなど気になっているアイドルは結構あります。
さすがにこの齢ということもあり、おニャン子が好きだった時とは違って「このアイドル(メンバー)が特に推し」というほど深いハマり方ではないけれど、それでも今もアイドルの曲を聞いていると何だかポジティブな気分になったり「この曲はいいな」と感じたりして、今でもアイドルは大好きですね。
そういう中でも、やはり私がアイドルにハマった頃でもある1980年代のアイドルはつくづくすごい存在だと感じてしまいます。
何といっても、あれから40年前後も経っているにもかかわらず、今でも第一線で大活躍している人が多いし、昔の楽曲を聞いても全くといってよいほど古くさい感じがしません。テレビやラジオでトークするときなどの声を聴いても、年齢を重ねたとはにわかに信じられないような若々しい声を聞かせてくれる人がほとんどなのも、やはりすごいことだと感じてしまいます。

日本のアイドルは世界的に見ても誇れるコンテンツの一つだと思いますが、やはりそんな中でも1980年代のアイドルの魅力が今でも失われていないのは、素晴らしいことだと思います。

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あのドキドキは試験のせいだけじゃなかった? [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:受験の思い出

受験とか入試の思い出といっても、これといってハプニングや失敗の記憶がないなあ…なんて考えていたら、個人的にはちょっと変わった経験だったかも、と思う経験をしたのを思い出しました。
それは、後に合格して通うことになる千葉県内の某大学の入試でのこと。
私が一浪で受けた年のこの大学の入試は、大学のある千葉市内の他、埼玉県内にも受験会場が設けられていました。
試験を受ける会場は受験生の側で選択できたので、私は自宅から近い埼玉の会場で試験を受けることにしたのですが、その会場というのが、その大学の系列の短大のキャンパスでした。
当時その短大は男女共学ではなく、男性の私にとってはこんな形で女子短大のキャンパスに入ることになるとはと驚きました。

試験の当日、会場の短大の最寄り駅からキャンパスまで歩く間は、この試験がその年の最初の入試(私はセンター試験は受けませんでした)だということからくる緊張と、普段はあまり縁のない女子短大のキャンパスに入るという別のドキドキ感とが入り混じって何とも言えない気分でした。
実際にキャンパスに入ってみれば、キャンパス自体は現役生の頃の入試や模試で入ったことのある他の大学とあまり変わらない印象で、考えていたほど特別な場所という感じはしなかったような記憶があります。
試験自体も他大学とほとんど変わらない形で行われていたと思います。同じ会場で試験を受ける人も、特に男女どちらが多めといったこともなかった気がします。
唯一、当時その短大の学生は女子だけだったということで、トイレはどうしたのか、これについての記憶はありませんが、おそらく教員・職員の方用のトイレを使わせてもらっていたのかもしれません。
そんなこんなで、初めて足を踏み入れることになった女子短大のキャンパスでの試験は特にこれといって変わった出来事もなく終わり、私は無事合格しました。
もちろん入学したのは試験会場の短大ではなく、その短大の系列の共学の四年制大学でした。
そしてその後、私があの短大のキャンパスに再び足を踏み入れることはありませんでした。

今ではあの短大も母校の大学の組織再編で独立した短大から大学の短期大学部という形に変わり、男女共学ともなりました。
また短大の敷地も大学の埼玉キャンパスと名称が変わりました。
母校の大学も私が通っていた時代と比べて学部や学科もかなり増え、30年の時の流れを感じます。

そういえば、母校の大学の学園祭、一時は毎年楽しみに出かけていたのに、もう10年ぐらい言ってないなあ…
もし今年、コロナ禍以前のようなスタイルで学園祭をやるなら、久しぶりに行ってみようかな。
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楽しめたような、そうでもないような [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:社員旅行や社員運動会など、会社内のイベントに参加したことある?

新卒で入った会社には、私の入社当時毎年確か秋頃に社員旅行が行われていました。
私のいた会社(金融関係)は大手と比べればだいぶ小規模でしたが、それでも北は札幌から南は福岡まで、当時全国に13~14の営業所があり、それらで働く社員が一堂に集まる貴重な機会でした。
私が入社した年の行先は、伊東だったか熱海だったかの大きなホテルでした。
社員旅行の初日、私も含め本社や関東圏の営業所の社員は、会社の本社が入居しているビルに集合してバスで現地へ、その他の地域からは新幹線や飛行機で現地に向かうという形になりました。
私たちバス組は(たぶん)午後早めに現地に着き、少しだけホテルの近くを敢行してから宿に入りました。
やがて各地から社員が続々到着し、あちこちで挨拶しあう声が聞こえたりしてかなり賑やかになってきました。
そしてお待ちかねの夕食。
当日集まった人数は軽く600人は超えていたと思われ、大広間3~4部屋をぶち抜いて席が用意されていました。
まずは社長や役員の話から始まり、乾杯の後はたぶん芸人参加歌手のステージを楽しみながら食事、という感じだったと思いますが、どんな人が出演していたのかは覚えていません。
料理の方はさすがに伊豆半島とあって海産物がおいしかったのは印象に残っています。
食事、というか宴会が中締めとなった後は温泉を楽しんだり、部屋などで二次会に突入したりと人それぞれ夜の時間を楽しんでいたようです。
翌朝は朝食の後特に行事などもなく、10時過ぎぐらいにはホテルを出てそれぞれの地元へ帰るという感じだったと思います。
こうして社会人になって初めて「社員旅行」というものを経験しましたが、私はそれを楽しめたかというと…
うーん、正直ちょっと微妙かなといったところでした。
もちろん温泉に入って伊豆の海の幸を堪能し、といった部分は楽しめたけれど、自分のいる部署の人や社内で顔を合わせたりしている人はともかく、他の営業所の人たちとは交流のきっかけもうまく作れず、この点では少々期待外れだったのを覚えています。

ちなみに翌年も別の場所で社員旅行が行われましたが、それ以降は社員旅行など社内イベントに出ることを敬遠する人が多くなってきたからなのか、私が会社を辞める前の年には全社的に一カ所に集まる行事というのもなくなってしまった記憶があります。
その後転職した会社にはこれといった社内イベントはありませんでした。
そして今はたらいている会社も、在宅勤務の社員が全国に散らばっていることもあり、全国の社員が一堂に集うどころか同じ部署でも互いに顔を合わせたことがないという状況になっています。
昭和の社員旅行や社員運動会のように、三かが半強制的だったりするのは敬遠したいですが、今のようなスタイルで働いていると、たまには同じ部署のメンバーで一度集まって何か楽しいことでもしてみたいなんて、思ったりします。
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いつもこのあたり [いろんな思い出]


おはようございます。gonanaです。

本日のお題:出席番号何番だった?

小学校時代は生年月日順、中学・高校時代は名字の五十音順で出席番号がついていました。
私の場合、誕生日が9月で、名字もクラスの男子全員を五十音順に並べると(当時は男子は男子、女子は女子でそれぞれ五十音順に出席番号をつけていた)、ちょうど真ん中あたりに来ることが多かったです。
私の小学校から高校2年生までの間、クラスの人数はおおむね42~50人で、そのうち男子は23~26人くらいだったので、小学1年~高校2年までは出席番号はいつも11~14番の間をうろうろしていた感じでした。
その影響もあってか、出席番号以外でも(鉄道車両の番号など)、10番台前半の番号や、下2桁が10番台前半になる番号には何となく親しみを感じるようになりました。
でも高校3年の時に理系・文系の志望別のクラス分けが行われた時に、クラス内の男女の人数比の関係で幼稚園時代以来久しぶりに出席番号が一桁、それも「7」になった時は何だか嬉しかったです。
そうなると現金なもので、それ以来好きな数字はそれまでの1から7に変わりました(笑)
もっとも、大学時代の学籍番号の下2桁や、その後勤めた会社の社員IDナンバーの下2桁など、私は10番台前半の番号にまだまだ何かと縁があるようで…
人間と番号の縁って、誰かが研究しているのかどうかわからないけれど、いろいろ事例を調べてみると面白いことが分かるかも。
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英会話教室のクリスマスパーティー [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:クリスマスパーティーの思い出

そういえばもう明日はクリスマスイブなんですね。
この年齢になって、なおかつ子供もいないとなると、クリスマスといっても特にすることもなく、せいぜいできるとすればコンビニで買ったケーキかチキンでも食べるくらいなものですが、まあそれでもクリスマスと聞くとやっぱり何だか楽しい気分にはなりますね。
で、クリスマスパーティー。
もちろん子供の頃はイブの夜には夕飯の時にはチキンなどのクリスマスっぽい、いつもよりちょっと豪華なメニューが出たりケーキを食べたりはしたけれど、我が家で本格的なクリスマスパーティーをした記憶はあまりありません。
あとは小学生の頃地元の自治会のクリスマス会に何度か行った記憶があるのと、大学生時代から社会人になってからにかけてボランティアをしていた千葉市のおもちゃ図書館で毎年開かれていたクリスマス会にボランティアとしてかかわったくらいですかね。

そんな中で、中学生時代から高校生時代にかけて、本場北米風(?)の本格的なクリスマスパーティーに2~3回ほど参加させてもらったことがあります。
以前にも書いたことがありますが、私は中学2年頃から高校2年頃まで、カナダ出身の先生が開いていた英会話教室に通っていました。そして、その当時毎年クリスマスが近づいた日曜日になると、先生の一家のクリスマスパーティーに私たち生徒もお呼ばれするのが恒例でした。
パーティーの当日、夕方5時頃にいつも英会話教室の授業を受けに通っている先生のお宅に行くと、すでに何人かが談笑している声が聞こえ、キッチンからは料理のいい匂いが漂ってきています。
パーティーは、普段授業に使っている部屋とリビングルームとの間のパーテーションを取り払って広くした部屋で行われ、先生と奥さんと当時4~6歳の娘さん、それに先生のお友達というカナダやアメリカ出身の方、そして私たち英会話教室の生徒が7~8人といったところが参加しました。
リビングのテーブルや授業で使っている机を並べて広くしたテーブルには、先生の奥さん手作りのものも含めたくさんの料理や飲み物、お菓子が並び、それらをみんな自由に手に取って食べながらのパーティーでした。
料理の中にはもちろんチキンなどもありましたが、やはり本格的だと感じたのは七面鳥の存在でした。
本場のクリスマスには七面鳥を食べるのだという話は子供の頃から何となく聞いていましたが、目の前で見るのは初めてでした。
もちろん私たち生徒もご相伴にあずかりましたが、残念ながら今となってはあまり味の印象が残っていません。ただ七面鳥自体食べなれないせいか、やはりチキンの方がおいしかったような記憶があります。
パーティーの途中には、ゲストで来ていた先生や奥さんのお友達がピアノやアコースティックギターの弾き語りを披露してくださったり、先生や奥さんがクリスマスソングやオールディーズをアカペラで歌ったりして盛り上げてくれました。
その他にもビンゴゲームなどをしたり、先生や奥さん、授業を受ける曜日や時間が違うため普段は顔を合わせることのない他の生徒仲間の人たちとのおしゃべりも楽しむことができ、気がついたらもう夜9時という頃になってお開きとなり、(たぶん輸入品の)お菓子をお土産にいただいて先生のお宅を後にしました。

こんな本格的なクリスマスパーティーに参加できたのは英会話教室に通っていた3年間の間だけでしたが、あれから30年少々たった今でもこの時期になると楽しいあのひとときを思い出します。
当時40歳代後半だった記憶のある英会話教室の先生も今ではかなりのお齢になっているはずですが、今もどこかでお元気なのでしょうか。
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今だったらもっと違った対応が… [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:長電話の思い出

今の、特に若い人って、長電話ってしてるんですかね?
最近は「夕べは○時間長電話しちゃって…」なんて話、あまり聞かない気がします。
私が学生の頃には、特に女子はそういう会話をよく教室でしていた記憶があります。
私の場合は、長電話をするほど友人関係が濃厚だったわけでもなく、仮に電話するにしてもお互いに連絡事項を伝えるくらいでせいぜい数分で切ってしまうので、親から長電話をたしなめられたこともありません。

そんなわけで、私にとって1時間越えの長電話の経験はわずか2回しかありません。
一度目は高校生の頃のことで、小学校時代の友人から久しぶりに電話があり、小学生時代の思い出やお互いの現状などいろいろな話で盛り上がり、気が付くと1時間半以上もしゃべってました。

もう一回は、確か社会人になって少し経った25年ほど前のことだったと思います。
私が大学時代から20年近く、千葉市の「おもちゃ図書館」で障がいを持つ子供やその兄弟姉妹の遊び相手をするボランティアをしていたという話は、以前にも何度かしたことがありますが、その間の一時期、ちょっとしたご縁で東京都荒川区にある同じようなおもちゃ図書館でもたまにボランティアをしていたことがありました。
千葉市のそれと同様、荒川区のおもちゃ図書館でも利用してくれる子供たちやその親御さん、さらには同じボランティアの先輩や仲間との出会いがありました。特に数人のボランティア仲間とは連絡先の交換もし、私が荒川区の方のボランティアになかなか行けなくなった後もしばらく電話や年賀状のやり取りをしていました。
そういったボランティア仲間の一人に、D君という私と同じくらいの年齢の男性がいました。
彼には少々発達障がいがあったようですが、私達ボランティア仲間や子供たちとのコミュニケーションには特に問題はなく、おもちゃ図書館でも人気のあるお兄ちゃん的存在だったようです。
そんなD君とも連絡先を好感し、ボランティアの時以外も時々電話で話すようになりました。
最初のうちは「今何やってるの?」などわりとたわいもない話をして数分で電話を切ることが多かったんですが、そのうちに電話の内容が少々重たくなってきました。
その内容というのが、D君の悩みというか愚痴を延々と聞かされるというものでした。
具体的な内容はもう忘れてしまいましたが、要はD君が当時通っていた福祉作業所での人間関係に関することでした。しかも、同じような話を繰り返しループで聴くことになってしまいました。
もちろんD君にとっては作業所の人たちとは全く関係のない私には話してもいいかな、と信頼したうえで話してくれたのだとは思います。
また、今だったら、悩みを抱えている人にとっては愚痴を聞いてもらうことも気持ちを落ち着けたり気分を少しでも開放させることにつながるということは知っているし、たとえ自分には対応の難しい問題でももっと適切なアドバイスがもらえる相手を調べてアドバイスするということもできたかもしれませんが、当時はそういったことに気持ちがいかず、さらに誰かの相談に乗るという経験自体もほとんどなかったこともあり、正直あまりいいアドバイスはできなかったのを覚えています。
しかも、D君からのこうした電話は覚えているだけでも3回ほどあり、うち1回はなかなか電話を切るタイミングをつかめないまま最終的に2時間半ほど彼の愚痴に付き合うことになりました。
当時はまだ携帯を持っておらず、家の固定電話で立ったまま電話していたので、電話がやっと終わった時にはどっと疲れたのを覚えています。
その日は日曜日で、13時半ぐらいに電話がかかってきてから16時近くまで話すことになり、つい「せっかくゆっくりできる日曜の午後なのに…」ともやもやした気持ちになってしまいました。
その電話の後次に荒川区の方のボランティアに行った時、ボランティアのリーダー的存在の方に例の電話のことを話すと(その日、たまたまD君は不在)、他のボランティア仲間の人の中にも何度もD君からの愚痴の電話を受けているという人がいるらしく、最終的にはそのリーダーの人とD君が時間をかけて話し合ったそうで、その後はこうしたことはありませんでした。

今から思うと、D君からの愚痴の電話に対する私の対応のしかたが適切だったとは思えませんし、もっといいアドバイスが出来たりしかるべき相談機関につないだりといった対応ができていたら…という悔いもあります。
ただ一つ幸いだったのは、このことでD君との関係が壊れてしまうといったことがなかったことで、その後も普通にボランティア先で顔を合わせたり会話したりする関係はしばらく続きました。さすがにあれから電話はあまりしませんでしたが…

私とほぼ年齢が同じだったD君、今では彼も50歳過ぎのおっさんになっているはずです。
どちらともなく年賀状のやり取りをしなくなって以来、D君が今どこで何をしているのやら全くわかりませんが、もし再会できる機会があったならどこかでゆっくり酒でも飲みながら語り合いたいものです。
もしまた彼の愚痴を聞くことになったとしても、今度はあの時よりはましな対応ができる…かな?
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