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身体が元気な時の入院って… [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:入院したことある?

思い出してみれば、記憶のあるものだけでも4~5回、さらに物心つく前にも1~2回入院しているらしいです。
入院回数は少ないとは言えないけれど、もっと多く入院している人のことを思えばそうでもないともいえなくもない微妙な数です。
ただし、幸いというか、記憶のあるものに限って言えば、外出先で体調を崩して救急車で搬送されたことが一度あるほかは、あまり深刻な事態での入院というのはありませんが。
今回はそんな入院体験の中から、ちょうど20年前に両眼の白内障手術で1か月ちょっと入院した時のことを書きたいと思います。

2002年秋に、当時定期的に通院していた都内の大学病院の眼科で、両眼に白内障の症状が見つかりました。
この時期はたまたまというか、新卒で入社した会社を辞めた直後で、時々ハローワークに再就職先の求人を探しに行ったり雇用保険関連の手続きに言ったりするほかは時間があり余っていたこともあり、この機会に両眼とも手術することになりました。
近年では、日帰りでの白内障手術も普通に行われるようになりましたし、手術そのものも1時間ちょっとで終わる、それほど難しいものではありませんでしたが、両眼に同じ処置をすることになったのと、術後の経過を慎重にみるために、少し長めの入院となりました。

両目を手術するといっても両眼を同時に手術するのではなく、私の場合は入院後5日ぐらいでまず片眼の手術を行い、1週間ほど術後の経過をみて問題がないということでもう一方の目も同じような流れで手術を受けました。
手術した方の眼には術後数日間眼帯を付けましたが、上に書いたような理由で常にどちらか一方の目は普通に見えているので、病室などでは特に介助の必要もなく普通に歩き回れる状態でした。
なので、手術当日は2回とも朝9時頃から手術を受けて昼前には病室に戻り、それ以降は何事もなかったかのように過ごしていました。

この入院生活、罰当たりな言い方が許されるなら「暇」という感じでした。
術後はしばらく入浴やシャワー、洗顔ができないなど多少の不自由はあるものの、基本的に体調には何の問題もないので、ずっとベッドに寝ていなければならないということもありません。
そのため2~3日くらいの頻度で診察や検査はあったものの、それ以外には特にすることもない日々はどうしても退屈でした。なまじ介助なしで普通に歩き回れるくらい元気なだけに…
あまりにも暇なので、せっかくベッドがあるんだからと、会社勤めの平日はできない昼寝などしてみようかとも思いましたが…
こういう時に限ってちっとも眠れなかったりするわけで(笑)
そして、21時という普段の生活ではありえない浅い時間の就寝。
疲れているわけでもなければ体調が悪いわけでもないから、こんな時間にすんなり眠りに入れるわけもなく、早くても22時頃まではこっそりテレビを見たり、ラジオや音楽を聴いたりして何となく起きてました。

こうして両眼とも白内障を手術した後は、以前より見え方が目立って改善されたのを実感できました。
十数年後に視覚障がい者になることは当時は想像できませんでしたが…

そんな入院生活でしたが、退院の日にはやっぱり「やっと家に帰れる!」「やっと日常に近い生活ができる!」(退院後もまだ少しの期間術後の留意事項がいくつか残っていましたが)という喜びというかホッとした気持ちでいっぱいでしたね。
これはそれ以外の入院の時にも感じたことではありますが。
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職場のアイドル [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。
最長片道切符の妄想旅日記はまだまだ続きますが、今回は一休みして「本日のお題」やります。

本日のお題:初めてのアルバイト

通っていた高校は確かバイト禁止だったので(正確なところは記憶が定かではないけれど、数人内緒でバイトしているという噂は聞いたことあり)、初バイトは大学1年の夏休みでした。
その内容は、埼玉県戸田市にある本の流通会社の流通センターでの倉庫内作業でした。
その倉庫では主に小中学校向けの教科書やドリル、副読本などを扱っていて、出版社や印刷所から送られてきたそれらの書籍類の入出庫に伴う作業や、逆に取次店等から返本されてきた書籍類を出版社に戻す作業などを中心に、倉庫内での作業が少ない日には倉庫に併設された事務所での事務作業などもしていました。
バイトが初めてなら倉庫内での作業の経験も初めてでしたが、新品の教科書やドリルなどはビニール等でしっかり梱包されて山のように運搬用パレットの上に積み上げられていて、これらがたくさんの学校へ送られていくのかと驚いた思い出があります。
一方、返本されてきた教科書やドリルは一冊一冊バラバラに段ボール箱に詰められていました。そのため、休憩時間にはそういった教科書やドリルをチラッと覗いてみたりするのが密かな楽しみでした。
久しぶりに小学生向けのドリルを頭の中でやってみたりすると(もちろん、返本されるドリルなどに直接答えなどを書くなどといったことは全くしていません)、ちょっと小学生に戻った気分がする反面、理科の教科書の内容などは意外と忘れている事があったりして、時間の経過とあの時の授業の内容がきちんと頭の中に入っていなかったことに対する愕然とした気持ちとで複雑な心境でした。

私が働いていた倉庫では、倉庫会社の社員の方と私達学生やフリーターのバイト、事務のパートさんを合わせて50人弱くらいの人が働いていました。
バイトは13~14人ぐらいいて、その中には3~4人の女性もいました。
特に、中国からの留学生でどこかの専門学校に通っているというKさんというかわいらしい女性は職場のよきムードメーカーになっていました。
彼女のちょっと天然なキャラとちょっぴり変な(?)日本語の話し方は、バイトみんなのアイドル的存在になっていました。

私のその倉庫でのバイトは大学の夏休み中の2か月弱の間だけだったので、バイト仲間ともその後会う機会もなく、もちろんKさんのその後もわかりません。
あの時、Kさんは確か私とほぼ同い年くらいだったと記憶しているので、今ではKさんももう50歳前後のおばちゃんになっていることでしょう。
今は中国に帰っているのか日本にいるのか、はたまた別の国にいるのか全く分かりませんが、今でもKさんのかわいらしい笑顔とちょっとたどたどしさの残るおしゃべりの記憶が鮮明に残っているだけに、今のKさんのことにちょっぴりだけ興味があったりします。
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流行とはわからないもので… [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:カセットテープ使ってた? まだ持ってる?

カセットテープ、もちろん使ってました!
父親から中古のラジカセをもらってラジオを聴くことにハマったのと同じ頃、ラジオでかかった好きな曲をテープに録音するやり方を父親から教えてもらい
、さっそく当時放送されていた「全日本歌謡選抜」などのラジオの音楽ランキング番組などを聴きながら、主に当時の女性アイドルの曲をどんどんテープにエアチェックしていきました。
できれば純粋に曲だけを録音したいのに、イントロにパーソナリティーの曲紹介が被ったり、フルコーラスでなく途中でフェードアウトしてしまったりと、ラジオからテープに音楽を録音するのには悲喜こもごもの思い出があります。
その後、家から近いところにレンタルCD店がオープンし、そこでCDを借りたり中古CDを買ったりしてテープにダビングするようになり、自分のオリジナルのプレイリストのテープも作るようになっていきました。
そしてもう一つ、カセットテープにたくさん録音したのが好きなラジオ番組。
タイマー録音のできるラジカセを買ってもらってからというもの、深夜の番組やリアルタイムで聴けない番組など、週に何本もの番組を録音し、通勤・通学の途中や家での暇な時間などによく聴いていました。そして気に入った番組は爪を折って上書き録音できないようにし、何度も何度も繰り返し聴いたものです。

こうしていろいろなものを録音しているうちに持っているカセットテープの本数はどんどん増えていき、最も多い時にはおそらく600本以上あったと記憶しています。
その後は聴く機会が少なくなったり、切れたり絡まったりして再生できなくなったものをだいぶ処分しましたが、今も部屋の押し入れの段ボールには100本以上のカセットが眠っているはずです。
今は昔使っていたラジカセも処分してしまい、カセットテープを再生できる機器も持っていないので、残っているテープもざっと15年弱は全く手を付けていません。
今はカセットテープの音源をSDカードなどに保存することができる機器も出ているので、できれば残っているテープの中から厳選していくつかお気に入りの音源を残したいところですが、何せ10数年も放置状態が続いたので、すっかり劣化しておそらく再生すらままならない状態になっているんでしょうね…

そういえば、今から20年ぐらい前は、もうカセットテープなんて時代遅れだ、というような声を時々くことがあり、事実演歌の世界などはともかくとしてカセットテープが売られているのを店で見る機会もほとんどなくなり、このままカセットテープは過去の遺物になると思っていました。
でも、ここ数年再びカセットテープの存在が見直され、新たに新曲をカセットテープでリリースするアーティストも結構いるとか。
いやあ、流行とはわからないものですね。
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あれから20年か… [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:○年の今日、何してた?

ちょうど20年前の今日は、新卒で入社したとある金融系の会社を辞めた日でした。
大学時代の就職活動のスタートが少し遅れた影響なのか、それとも私のアピール力不足のせいなのか、おそらくは両方の理由でなかなか就活ははかどらず、就職浪人寸前だった3月下旬になってやっとこさ内定が出たのがその会社でした。
決して志望していた方向の業種の企業ではなかったけれど、就職氷河期とも言われた時期だけに、とりあえず就職浪人を避けられただけでもよしと考えて入社することにしました。
入社後まず配属されたのが営業部門。
もっとも私は直接営業活動をするわけではなく、いわゆる営業事務的な仕事をすることになりました。
当時から自分には営業職は向かないと思っていたので、直接営業活動をしないのはよかったけれど、それでも何の基礎知識もなく飛び込むことになった金融関連の営業部門に配属されたということで、どうも自分には場違いな場所に来てしまったというような感が強く、入社後1か月近くなると「たぶんこの会社に定年までいることはないだろうな」と漠然と考えるようになりました。
そんな私のことを上司が気付いたからかどうか、それから間もなく私は経理部に異動することになり、経理の知識はあまりないながらもそれほど苦手意識を持つことなく仕事ができました。
その後さらに総務部へ異動して仕事をしていましたが、そのような中でもやはり志望先としては全く考えていなかった金融関係の企業に入ったという何となくの居心地の悪さがずっと会ったことは否めず、また会社や部署の一部の決め事に対するもやもや感もあり、いろいろ考えた末、入社後7年5か月で退社することにしました。退社にあたっては、必ずしも自分とは相性の合わない部分もあった会社とはいえ、就職浪人になる一歩手前で私を拾ってくれた恩義もあるので悩みましたが、やはりこのままではいつか限界が来るような気がしてや辞めることにしました。
そういうこともあって、最後の出社日となった20年前の今日の帰り道は、退社して一区切りついたことによるスッキリ感よりも、特に今後何をするかが具体的に固まっていない中で会社を辞めたことや、再就職先がうまく見つかるだろうかという不安の方が大きく、重い足取りで家への帰路につきました。

その後、自分なりに今後何がしたいのかいろいろ考えて再就職先探しに励んだものの、新卒での就活の時と同様なかなか行き先が決まらず、結局次の就職先が決まるまで8か月かかる結果になりました。
再就職した会社は働きやすい環境で人間関係もよく、視覚障がい者になって今まで通り勤務することが難しくなって退社するまでの11年少々の間、大きな問題もなく働けたのは幸いでした。

あの日辞めたあの会社での経験が、今どのように生きているのかはわからないけれど、自分にとってはやや働きずらい面もあったあの会社での日々も、あれから20年ともなると月日の流れを感じます。
タグ:20年前
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苦手なものほど後まで残る [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:夏休みの宿題、早めに片付ける? 最後まで残る?

もちろん、早いうちに済ませられるものは済ませてしまった方が、後で楽になるというのは重々承知なのだけれど、やっぱり毎年できませんでしたね。
それでも「夏休みの友」という国語・算数などのドリルなんかはわりと早めに片付けられていた記憶があるし、絵日記も数日分まとめて書くことはあってもどうにか終盤まで書き続けることはできていたような気がします。
でも、読書感想文やら自由研究やら絵・工作の宿題など、私が苦手だった宿題はどれも夏休み終盤まで残りがちでした。
特に絵や工作、自由研究などは、かなり父親や母親に手伝ってもらってどうにか片付けたのを今でも覚えています。
そして、一番最後まで完成せずに残ることが多かったのはたぶん読書感想文だったと思います。
課題図書を含めどの本を読んで感想文を書くかが後半になってもなかなか決まらず、やっと読む本を決めて書こうとしても、いざ現行由を前にするとどのように感想をまとめて規定の枚数まで感想文のボリュームを持たせることができるのか悩んでしまい、なかなか鉛筆が動きませんでした。
そんなこともあって、夏休みの宿題といえば正直いい思い出がありません。

以前も書いたことがありますが、夏休みの宿題として、ドリルあたりはいいとしても絵や工作、読書感想文を全員に課すのはどうなのかと、私はつい思ってしまいます。
自由研究も含めて、生徒によってどれか得意なものを1つ選択してそれに注力するようにすれば、生徒はもちろん親や先生の負担も軽減されるような気がします。
それでは休み中の宿題のボリュームが減ってしまうと…という懸念を口にする人もいるかもしれませんが、宿題の寮を少し減らして、その分他の夏休みだからこその経験をたくさんしてそれを何かしらの方法でレポートにまとめ、夏休み明けに発表しあったりする方が楽しい気がします。
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ある意味一番身近だったので [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:行ってみたい島はどこ?

行くとしたら伊豆諸島がいいかな。
住んでいる埼玉からだと一番近い離島だからというのもあるけれど、一番の理由は私にとって伊豆諸島は一時期、ある意味結構身近な存在だったともいえるからです。
といっても、私は過去に伊豆諸島に行ったことは一度もないんですけどね。

一度も伊豆諸島の島々に行ったことのない私が、伊豆諸島を「ある意味身近な存在」と感じていた理由には、私が社会人になって初めて働き始めた場所が関係しています。
先日の記事にも書きましたが、私が新卒で入社した会社は、東京都港区の竹芝桟橋のすぐそばにある再開発ビルの中に私の勤務地もそこでした。
竹芝桟橋は、大島や新島などの伊豆諸島、さらには小笠原諸島への高速船やフェリーの発着地になっています。
その竹芝桟橋の旅客ターミナルは、私の勤める会社の入るビルからも目と鼻の先にあり、船に乗るわけでもないのにたまに昼休みにふらっと除きに行ったりすることがありました。
多くの乗客が集まることに備えてかなりの広さがある待合室のベンチで一休みしたり、いろいろな島の特産品が並んだ売店を覗いたりすることが多かったです。(売店でお土産などを買ったことはなかったですが)。
またターミナル内には、伊豆諸島の食材を使ったメニューが食べられるというレストランもあったと思いますが、お昼を別の場所で食べてきた後にターミナルに行くことが多かったため、竹芝に通っている間に底で食事するチャンスはありませんでした。
今思うと、せっかくフェリーに乗らなくても島へ行った気分が味わえたのにその機会をみすみす逃してしまったのは悔やまれます。
それと、これはほぼ夏限定でしたが、伊豆諸島のどこかの島から帰ってきた観光客の人々と、会社から最寄りのJR浜松町駅へ向かう道で一緒になることがよくありました。
私の勤める会社の定時の終業時刻が、どこの島かはわかりませんが竹芝桟橋に到着した高速船やフェリーの時間と近かったらしく、学校が夏休みの時期で私が定時で会社を退社できた時には、いかにも島での夏休みを満喫してきたという感じのよく日焼けした人たちとともに浜松町駅への道を歩くことになり、何ともうらやましい気分になったものでした。

そんなこんなで、私が竹芝に平日のほぼ毎日通っていた7年あまりの期間は、伊豆諸島がある意味身近だった期間でもありました。
でも、結局現在に至るまで、竹芝桟橋から伊豆諸島や小笠原諸島へ旅立つということは全くありませんでした。
やはりこれらの島々に鉄道がないとなると、どうしても私にとっての「行きたい」優先度が下がってしまうわけで…
でも、せっかく首都圏から比較的手軽に行ける離島なので、いつかはぜひ伊豆諸島のどこかの島に観光に行きたいものです。
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あの頃はわりと地味な駅だったんだけどね… [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:東京で思い出深い街は?

東京都内で思い出深い街といえば、何といっても生まれ故郷の大田区蒲田とかその後住んだ清瀬市は外せません。
でも今回は、27年前に新卒で入社した会社の最寄り駅だった(今も?)浜松町駅や竹芝桟橋のあたりの思い出を書きたいと思います。

社会人になるまで、浜松町駅といえば個人的には羽田空港へ向かうモノレールへの乗換駅という以上のイメージはなく、近くの有楽町や新橋と比べても地味な駅という印象がありました。
街としての浜松町や大門・竹芝のあたりへ出かける機会も特になかったので、電車で通過したことは数えきれないくらいあったものの浜松町駅を目的地への最寄り駅として利用したのは、新卒で入社した会社の面接の時が初めてでした。
この時利用した改札は、東京モノレールへの乗り換えに便利な橋上駅舎にある改札ではなく、新橋方にある北口でした。
当時の浜松町駅北口は、ここが山手線の駅かと思うくらいの規模の小ささで、ここだけを見ると私鉄の普通電車鹿停車しない小駅のようでした。
改札を出て左手方向には世界貿易センタービルの巨大なビルがそびえ、その向こうには多くの飲食店が立ち並んだ大門の交差点があります。
一方線路を挟んで海側は大きな建物は少なく、飲食店も少なくて大門側と比べると何となくのんびりした空気も流れていました。
そして私は、そんな海側の街並みを通って竹芝桟橋そばに立つ再開発ビルに入っている会社へ通勤するようになりました。
当時の竹芝のあたりは、バブルの頃の「ベイエリア」の再開発の効果で、それ以前にイメージしていた竹芝桟橋周辺の後継とは違う、未来的なイメージのビルの立つ街という印象がありました。私が竹芝へ通うようになった翌年には「ゆりかもめ」も開通し、昼食時などによく利用した小さな公園から眺めるレインボーブリッジやお台場のフジテレビの球体などと合わせ、何だか時代の先端を行く街で働いているというちょっとした誇りのようなものもありました。
まあ、浜松町駅からそこへ向かうまでの街並みはそれに伴って大変化、というほどではありませんでしたが。

結局、私の浜松町・竹芝通いは新卒入社の会社を辞めた2002年の8月いっぱいで終わりました。
その頃は、これといって大きな再開発が行われるというような話も聞いていなかったように記憶してますが…
そんな浜松町エリアがこれから大変貌を遂げようとしているというのを知って、かつてそこに毎日通っていた身としてはかなりの驚きがありました。
浜松町のランドマークともいえた世界貿易センタービルも取り壊され、新たな高層ビルが建つとか。
以前から少しずつ再開発されてきていた竹芝のあたりと合わせ、あと10年ぐらいも経てば、私が毎日接してきていた浜松町周辺とは全く違う街に変貌していることでしょう。
私自身はその変貌ぶりを自分の目で実感することは叶わなくなってしまったけれど、この再開発で以前は地味な存在だった浜松町が一躍東京の注目スポットにのし上がるかもしれないと思うと、感慨深いものがあります。
でも個人的には、焼き鳥屋さんの開け放したドアから焼鳥を焼く煙の臭いが漂ってくるよう、大門駅周辺の庶民的な街並みは消えないでほしいと思います。
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真夏の鉄道イベントにて [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:熱中症にかかったこと、ある?

はっきりと熱中症、あるいはそれ以前の呼び方である日射病とか熱射病と診断を受けた経験はないけれど、今思うとあれは熱中症だったかも、と思う体験はあります。

あれは確か2010年の8月終わりのこと。
その日は品川区にあるJRの東京総合車両センター(車両工場)で当時毎年恒例だった一般公開が行われていて、私も昼過ぎから出かけていました。
広大な車両センターの構内では屋外での車両の展示や、車両の定期検査や改造などが行われる建屋内の公開、鉄道グッズ等の販売などいろいろなイベントが行われていました。
構内を一回りして展示車両の撮影などを楽しんだ後、建屋と建屋の間の広い空間にいくつも並んだ物販テントのところへと向かいました。
いくつも魅力的な鉄道関連グッズの並ぶ物販テントを、あれも欲しい、これも欲しいとかなり迷いながら行ったり来たりしているうちに、何だか少々疲れを感じるというか、ちょっと体調に違和感を感じるようになってきました。
それでもひとまずあれこれ買い物もしたのでそろそろ帰ろうと歩いていると少しふらつきを覚えるようになりました。
そこで一休みしてから退場しようと、職員食堂を開放して設けられていた休憩所に入り、そこで売られていたペットボトルの飲み物をがぶ飲みしてその場はどうにか復活しました。
その後帰り道でカレーを食べて元気をチャージし、無事に帰宅しましたが、翌日からは体調不良で数日寝込むことになってしまいました。

この時は医務室などへは行っていないので、先ほども書いた通り正確に熱中症などといった診断を受けたわけではありません。
実はこのイベントを見に行く前に、別の場所で心の折れるような経験をして精神的に少々落ち込んでいたことも何らかの形で影響したと思われます。
ただ、確実に30℃を超える暑さの中、日射しを遮るものや日陰になる木々もほとんどなく、アスファルトの照り返しもきつい工場内をあちこち歩きまわったことにより、それらが複合的に作用して当日や翌日の体調不良へとつながったのは確かでしょう。

以来、私は真夏の日中に外出するときはカバンの中にペットボトルの飲み物を用意したり、最近では塩分補給用の塩飴を入れておいたりするようになりました。
もっとも、最近のような酷暑では、その程度の対策では追いつかないんでしょうけど。
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豪快にかぶりつく!うまい! [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:学生時代の思い出の味は?

学生時代にハマっていた食べ物といえば、大学時代の学食や購買部で売っていたサンドイッチや弁当が一番思い出に残っています。
学食はこれといって際立った特徴があるわけでもありませんでしたが、日替わりのランチはやはり人気があり、早い時間に行かないと売り切れということも多かったです。
その日替わりランチの内容といえば、フライやコロッケの盛り合わせなどわりとありがちなセットメニューが多かったですが、時にはビーフストロガノフが出たりその当時はあまり食べたことのなかったカルボナーラやペペロンチーノなどのパスタ類が出ることもありました。
そして、この学食で楽しかったのが料理の受け取りのところのスタッフさん(ほとんどがおばさんでしたが)との、注文した料理が出そろうまでの短い間ながら楽しめるおしゃべり。
教授や講師の先生の裏(?)の顔だったり、私やスタッフさんのプライベートな話をする時間がとても楽しかったのを思い出します。

購買部(売店)で売っているパンやサンドイッチ、弁当やおにぎりの中には外部の業者から仕入れたと思われるものもありましたが、昼食時にはこれに加えて学食やそれの営業を請け負っていた会社の厨房で作っていたと思われるサンドイッチや弁当も売られていました。
このサンドイッチや弁当の販売、アイテム数や個数はそれほど多くはないものの、ちょうど2限目が終わってお昼休みに入ろうとする時刻に出来上がるように調理していたようで、特に弁当はまだ温かく、出来たてに近い味が楽しめました。
私がそこで売られていたものの中で一番気に入っていたのが、肉厚でデカい豚のロースカツが耳付きのまま斜めに切った食パンに挟んであるカツサンドでした。
ロースカツはまさについさっき揚がったばかりと思えるような肉汁たっぷりのボリューム満点なもので、かぶりつくと肉汁が口の中いっぱいに広がるジューシーな逸品で、シンプルながら見た目だけで食欲をそそられるものでした。
値段は購買部で売られている他のサンドイッチやロールパンが概ね1個100~150円だったのに対し、確か1個250~260円とほぼ倍でしたが、その価値は十二分にあるものでした。
もともと私はカツサンドは好きだったので、購買部でこのカツサンドを初めて見つけた時にさっそく買って食べましたが、これまで食べてきたカツサンドとは格段に違うそのおいしさに感動し、それ以来卒業まで頻繁に購入するお気に入りの昼食メニューになりました。
そしてこのカツサンドにハマってしまうとコンビニなどで売っている普通のカツサンドでは飽き足らない体になってしまいました(笑)

大学卒業により、このカツサンドが食べられる日々も終わりましたが、あれからもう30年近くを過ぎた今も、あのカツサンドを超えるサンドイッチにはまだ出会えていません。
今も私の出身大学の購買部でこのカツサンドが売られているのかどうかはわかりませんが、もしあのカツサンドと同じものを今も味わうことが叶うならば、学生時代を思い出しながら豪快にかぶりついてみたいものです。
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いつもはうれしいあれだけど… [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:もう一度食べたい給食のメニューは?

まあ、言ってしまえば「基本的にすべて」なんですけどね(笑)
カレーにソフトめん、焼きそば、丸いパンにスライスチーズやハンバーグ、フライを挟んで作るチーズバーガーやフィッシュバーガー、日によってマーガリンやチョコクリーム、ジャムなどいろいろなものをつけて食べる食パンや、小さく切ったチーズやレーズンがちりばめられたコッペパンなど、挙げていったらきりがありません。
それこそ今すぐにでもタイムマシンに乗って食べに行きたいくらいです。

その中で、あえて定番以外のもので一つ挙げるなら、確か小学2~3年の時に一度だけ出た鯨のフライですかね。
その名の通り、鯨肉に衣をつけて揚げたもので、給食センターのフライヤーの構造の影響なのか、白身魚のフライなど給食で出る他の揚げ物同様に、小さめな四角い形状になっていたのが思い出されます。
肝心の味はというと、これがほとんど記憶に残っていません。
ただもともと味覚がそれほど鋭敏でないこともあり、正直鶏肉や豚肉、牛肉との食感の違いがほとんどわからなかったのだけは覚えています。
当時はまだ子供だったためもあり、まさか鯨を食べるということ自体が貴重な経験になろうとは想像もつかず、ただ「へぇ~、珍しいね」程度の感想しかありませんでした。
もし今、あの時と同じ鯨のフライを食べるチャンスがあるなら、今度こそしっかり味を噛み締めてみたいですね。

それと、あと、夏になると思い出すのが、毎年1学期の終わりごろに出ていたアイスクリーム。
どのようなブランドのものかは覚えていませんが、当時食料品店やスーパーなどでよく売られていたカップ入りのバニラアイスとほぼ同じものがデザートとしてついてくる日がありました。
今よりはだいぶましとはいえ暑くなってくるころでもあり、もともとアイスクリームは好きなので楽しみではあったのですが…
出てきたものはほとんど融けてドロドロニなってしまい、あまり冷たくもないただの「クリーム」と化したアイスクリーム。
おそらく、給食センターから学校に配送されて教室で配られるまでの間の保冷が十分でなかったことが原因でこうなったと思われますが、子供に大人気のアイスクリームもこんな状態で供されたのではがっかりで、クラス中でも不評だったの思い出します。
今も給食でアイスクリームが出ることがあるのかはわかりませんが、あれから40年以上経ち保冷技術もかなり進歩していると思われるので、もうあの頃のようなドロドロのアイスクリームが出てくるなんて事はないかもしれません。
もしそうなら、他のメニューは昔と同じでアイスクリームだけ今のクオリティーで、というような給食も食べてみたいものです。
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