SSブログ

通学中にプチ「鉄」活動 [いろんな思い出]

おはようございます。gonanaです。
珍しく朝の更新です。
今日は、高校生時代の高校への通学にまつわる思い出です。

高校生の頃、通学には自転車と電車の両方を使っていました。
それは、自宅最寄駅まで自転車で行ってそこから電車で、という形ではなく、晴れている時には自転車、雨の時などは電車で、というような使い分けをしていたということでした。
自転車では15分ほどで行ける高校までの通学時間が、電車利用だと遠回りのルートになるため、その前後の自転車や徒歩を含めると50分ちょっとかかるのが難点でしたが、それでも電車通学だからこそのお楽しみというものもありました。
それは、電車乗車中に車窓をかすめる車両基地の状況を見ること。
私の通学ルートの途中には、西武の小手指車両基地がありました。(もちろん現存します)
西武池袋線の飯能・西武秩父方面行の電車に乗り、小手指駅を発車後すぐに進行方向右手に見えるのが小手指車両基地です。
車両基地内の車両留置線や車両洗浄線は本線を走る電車内からほぼ全貌を見ることができ、この眺めは私が高校生の頃も今も、ほとんど変わっていないと思います。
現在でこそ、構内に並ぶ西部の車両たちもバラエティー豊かになり、加えて時間帯によっては相互直通運転で西武線内に入線した東京メトロと東急の車両が入庫している姿も見られるなど、毎日でも見飽きることのないであろう小手指車両基地の構内も、私が高校生だった1987~1990年当時は、構内に並ぶ車両の中で目を引く存在といえば当時の特急車両5000系と秩父線用でライオンズカラーの4000系くらいのもので、あとは当時の池袋線で運用された101系・新101系・3000系ばかりが並んでいました。
そんな中で、電車で通学中にいつもチェックしていたのが、構内の片隅(基地内の一番狭山ヶ丘駅寄りの、一番本線から離れた場所)でした。
片隅といっても、電車内はもちろん車両基地の外周の公道、さらにその公道と西武線との踏切からも窓や柵越し、あるいは直接にばっちり見える場所なので、「構内の一番奥」という感じはあまりありませんが…
なぜ私がその場所をいつも気にしていたかといえば、当時そのあたりで、廃車され、地方私鉄への転出もされず解体される車両たちの解体や、解体前提ではなくても新型車投入で余剰になった旧型車の一時的な留置が行われていたからで、すでに池袋線の定期列車では見ることができなくなっていた形式の姿も見られました。
私が高校生だった当時、この場所で解体されていたのは、新宿線への新2000系投入で余剰になった701系や、4000系や9000系に機器を提供するために一部の車両が廃車された101系あたりだった記憶があります。
その他、現在は多くが横瀬駅構内で大切に保管されている大正・昭和初期製造の輸入電気機関車数両も、工事列車等の牽引の任務を1986年ごろに製造された電気機関車E31形に譲ってからしばらくの間、この片隅のスペースに並んで留置されていたのも記憶に残っています。
私は電車で通学となるたびに、その場所に留置された車両たちの動向を見ながら通学していました。時には実際に車両の解体作業を目撃することもあり、これにはさすがに胸を痛めましたし、日を追うごとに形を失っていく車両を目にするのも辛いものがありました。

そうして、電車に乗っているときにしか目にすることができないと思っていた小手指車両基地でしたが、ある時自宅とその周辺の地図を見ていると、自宅から小手指車両基地が自転車でもそう遠くない距離にあり、しかも高校へも近いということが分かり、以来、自転車通学の日でも時折本来のルートを外れて車両基地ウォッチングの寄り道を楽しんだものでした。

現在では廃車となった車両の解体も小手指では行われなくなり、かつて車両解体や余剰車両の留置が行われていたスペースにも普通に現役車両が入っていたりするようですが、出入りする車両はすっかり変わっても構内の線路配置などが30年前とほとんど変わっていない(と思われる)ので、当時のことを思い出すのは割と簡単です。
私も数年前、久しぶりに車両基地外周の公道から昔を思い出して構内ウォッチングをしたことがあります。
この時は自転車ではなく小手指駅からの徒歩でしたが、久しぶりに通学中の「プチ鉄活動」を思い出してなかなか感慨深いものがありました。
ちょうどその時構内で見かけた車両の一つが、東急との相互直通開始前に訓練のため小手指車両基地に入庫していた東急5050系(4000番台)だったのには、時代の流れを感じてしまいましたが…

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。