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1年間だけの「弟」との思い出 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:しばらく会ってないけど、今どうしてるか知りたい人、いる?

つい先日もこのお題で記事を書いたばかりですが、今回は卒業シーズンということもあり、毎年この時期になると思い出す、小学6年生の時に出会ったある下級生について改めて書きたいと思います。

小学6年生の時、私の通っていた小学校ではある新しい試みが始まることになりました。
それは、高学年の生徒と低学年の生徒が、日々の学校生活の中で一緒に遊んだり活動したりする時間を設け、お互いの交流を図ろうというものでした。
どうやら、生徒の友達関係が同じクラスや学年だけに偏りがちで、高学年の生徒と低学年の生徒との交流が少ない状況を変えたいという学校側の狙いがあったようです。
この試みは、確か「なかよしクラブ」というような名前で呼ばれていたような記憶があります。6年生のクラスは1年生のクラスと、5年生のクラスは2年生のクラスと、4年生のクラスは3年生のクラスと、それぞれクラス単位で組を作り、その中で生徒一人一人に男子同士、女子同士で上級生と下級生のペアを組んで活動するというものでした。
主な内容は、曜日を決めて午前中の長めの休み時間(「行間休み」と呼ぶ20分の休み時間)に一緒の組になったクラス同士で校庭で遊ぶ時間を設けたり、合同で学習発表会などの学級活動をしたりするものでした。
私のいた6年6組は1年6組と姉妹(兄弟)関係を組むことになり、その中で私はK君という男子とペアを組むことになりました。
K君は出会った時点でまだ6歳とあって小さくてかわいく、弟のいない私にとってはまるで弟が生まれたような気分になりました。
そして「なかよしクラブ」の活動が始まり、K君ともよく顔を合わせるようになりました。
最初のうちはお互いになかなかうまく打ち解けられずにいましたが、やがてお互いのことがわかってくるにつれ仲よく遊べるようになり、私は本当の弟のような気分で彼に接するようになりました。時には「なかよしクラブ」の時間以外にもK君と遊んだりもして、いろいろ楽しい思い出ができました。

しかし、そんな楽しい日々も私達6年生の小学校卒業とともに終わりを迎えようとしていました。
そこで、6年6組と1年6組の「なかよしクラブ」活動の最後のイベントとして、私達6年生が最後の家庭科の授業の中でカレーライスを作り、それを1年6組のみんなと一緒に食べる食事会が行われることになりました。
食事会は、卒業式1週間前の土曜日に行われました。
まず6年生がカレーを作りました。
私達の作ったカレーライス自体は市販のカレールーや肉、野菜、米を使って家庭科の教科書に書いてあるレシピ通りに作ったものでしたが、プリンやゼリー用の型にご飯を詰めて型を取り、そのご飯にルーをかけて皿に盛り付けました。
出来上がったところでちょうど1年生も土曜日の授業が終わる時間になり、1年6組のみんなと先生が家庭科室にやってきました。
家庭科室のテーブルに数組ずつペアで座り、食事会の始まりです。もちろん私はK君と並んで座ります。
カレーを食べながら、この1年間のいろいろな思い出を語り合ったり、お互いの学校生活のことなど、いろいろと話の花が咲き、とても楽しい食事会になりました。

そして、卒業式当日を迎えました。
卒業式に先立ち、式には参列しない1年6組のみんなとの本当に最後の顔合わせが開かれました。
1年6組の担任の先生と代表の生徒からのお祝いの言葉と、それに対する6年6組代表の感謝の言葉があり、その後1年生のみんなからそれぞれのペアの相方となる私たちに似顔絵と卒業のお祝いのメッセージのプレゼントがありました。
もちろんK君からも、実物よりもちょっとかっこよく(?)描いてくれた似顔絵と、心のこもった直筆のメッセージをもらいました。たった1年間とはいえ、ある意味本当の弟以上に仲良くしてくれたK君ともお別れだと思うと、卒業とはまた別の感慨がこみ上げてきてグッとくるものがありました。

卒業後も、私の家とK君の家が近かったこともあり、K君とは数回顔を合わせたり遊んだりする機会もありましたが、ほどなくしてK君の一家が関西(確か兵庫県の西宮だったような…)に引っ越すことになってしまいました。
その後も2~3年ほど年賀状のやり取りをしたものの、いつの間にかどちらからともなく音信不通になってしまい、今K君がどこで何をしているのか、全くわかりません。
私もK君ももう50歳前後になり、あれから40年近くの歳月を経てお互いおじさんになりました。
K君にしてみれば、私のことなどすっかり忘却の彼方に追いやってしまったかもしれませんが、もし再会する機会があるなら「なかよしクラブ」の思い出やお互いのこれまでの話を肴に酒でも酌み交わせたら、などと考えてしまいます。
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なんだかんだあって… [鉄道ニュース]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:卒業旅行の思い出

卒業旅行…、実は行ったことがありません。
小中学校の時はまだ卒業旅行に行くという発想自体が私にも親にもなく、おそらくは日帰りでどこかへ遊びに出かけた程度だったと思います。
高校卒業の時は、現役での大学受験に失敗して一浪が確定し、卒業旅行なんぞに行ける状況ではありませんでした。
そして大学卒業の時には、三度目の正直ではありませんがぜひ卒業旅行に出かけようと思っていました。
当初は九州に行こうと考えていましたが、卒業直前の1995年1月の阪神・淡路大震災の影響もあって断念。
そして私自身もなかなか就職先が決まらず、3月末ぎりぎりでやっと進路が決まるという状況で、結局卒業旅行というものを経験する機会に恵まれないまま社会人としてのスタートを迎えることになりました。
それでも、泊りがけではなくてもせめてどこかへ行こうと、入社式直前の慌ただしい中、日帰りで乗り鉄旅に出かけました。
行き先は伊豆修善寺にある観光施設「修善寺虹の郷」。
ここへ行った目的は、施設内を走る「ロムニー鉄道」に乗ること。
このロムニー鉄道は日本で唯一の15インチゲージの鉄道で、1990年頃の運転開始以来一度乗りに行きたいと思っていました。
(ロムニー鉄道についての詳細はこちら→https://www.nijinosato.com/park/romney-railway/
遠くへ出かけていろいろな列車に乗りまくるような旅ではないけれど、英国風の装いの列車にゆったり揺られたり、園内を散策するなどして束の間の「卒業乗り鉄」を楽しみました。

ところでこの「ロムニー鉄道」、今のところ乗車したのはこの時が唯一で、正直その存在も忘れかけてしまっていましたが、先日こんな記事がネットに出ているのを見つけて久しぶりに27年前に乗車した日のことを思い出しました。

ロムニー鉄道復活、5日に式典 修善寺虹の郷、全国から支援集まる|あなたの静岡新聞
https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/1032516.html

そして、ロムニー鉄道は昨日、予定通り運転を再開したそうです。

修善寺のロムニー鉄道が7カ月ぶり運行再開 ファンの熱意で枕木交換 | 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20220305/k00/00m/040/162000c#main

ロムニー鉄道、こういう状況だったとは知りませんでした。
それでも、復活に向けてこれだけの額の支援が集まるということは、いかにロムニー鉄道が愛されているかということなんでしょうね。
これをいい機会に、ぜひ近いうちに久しぶりに乗りに行きたいものです。
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遠距離通学 鉄ちゃん目線の思い出 その3 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
鉄道好き目線での私の大学時代の思い出、ひとまず今回で最終回です。

前回、前々回と、私が大学へ通学していた1991年春から1995年春にかけての総武快速線・内房線・外房線・総武緩行線の思い出を書いてきましたが、最後は京葉線の思い出です。
当時の京葉線は、私が通学で利用するようになる前年(1990年)の京葉線東京開業時から戦列に加わった205系と、それ以前から活躍していた103系が活躍していました。
当時の同線では、朝夕などの一部を除き、おおむね快速は205系、普通電車は103系というような使い分けがなされており車両運用も分かれていました。
私が通学時に京葉線を利用する時は快速を利用することが多かったため、当時は103系よりも205系に乗る機会の方が多かった記憶があります。
京葉線の205系は、車内は他線の同形式と変わり映えのしないものでしたが、鉄道ファンから「メルヘン顔」などと呼ばれる独特の前面形状や、光線の具合などによって赤にもピンクにも見えるラインカラーがささやかながら京葉線の個性を主張しているようにも感じられました。
個人的には、おそらく山手線の同形式の次によくお世話になったと思われる京葉線の205系も、京葉線からの撤退後は一部が宇都宮線宇都宮ー黒磯間と日光線で余生を送っていましたが、それも来る3月12日のダイヤ改正までの命ということで、このようなことからも30年あまりの時の流れを感じます。
一方の103系は、総武緩行線の車両と比べるとそれほど際立った特徴のある車両は少なかったようにも感じましたが、蘇我方(だったかな?)の先頭に連結されていることが多かったクモハ103形が、ATS-P(保安機器)取り付けに伴う運行番号表示機の移設により、独特の「顔」に変化しているのがユニークでした。先ほども書いた通り103系は普通電車に運用されることが多かったですが、ダイヤ乱れなどの影響からかたまに通常は205系を使用する快速に103系が入ることがあり、そういった時には103系の高速走行を楽しむことができました。
特に快速の停車駅間の長い新浦安ー海浜幕張間(当時、南船橋駅は快速通過駅でした)ではおそらく100km/h近くと思われるスピードで飛ばす103系の豪快な走りを堪能することができました。

そして、この時期の京葉線を走った列車でもう一つ印象に残っているのが、土休日を中心に東京ー西船橋間(時期により蘇我方面へ運転されたこともあり)で運転されていた臨時快速「シャトル・マイハマ」でした。
「シャトル・マイハマ」は、165系急行形電車を改造した3両編成の専用車両を使った列車で、ディズニーランドへの観光客輸送を目的にした列車でした。
車両の外観は白をベースに青や赤のストライプが入り、窓まわりが黒く塗装されたり2号車には大きな太陽のイラストが入ったりとカラフルなものに変わり、車内も車両により色の違うパステルカラーのシートが窓に向いたりボックス形に並んだりして配置されていて、見ても乗っても楽しい車両でした。
「シャトル・マイハマ」は主な運転区間だった東京ー西船橋間では確か舞浜駅のみの停車だったため、私がよく利用したのは東京ーマイハマ間でした。
同列車は全社普通車自由席の快速としての運転で、乗車に際しては指定券や乗車整理券なども必要なく、定期券でも堂々と乗車することができました。
ただ、車両の外観や社内が一般の京葉線電車や乗り入れの武蔵野線電車とは大きく違うこともあってか、目の前に「シャトル・マイハマ」が停車していても敬遠する人もいたようで、私がよく利用した土曜日の昼下がりの列車はそれほど混雑していなかった印象があります。
まあ、もしかするとその時間はディズニーランドで遊ぼうとすると少し中途半端な時間なのかもしれませんが…

以上ここまで、主に東京駅から千葉方面への路線を中心に、鉄道好き目線で大学生時代に通学等でお世話になった車両たちを振り返りました。
通学でお世話になった車両たちとしてはこの他に西武線の各形式や山手線の205系などにも思い出がありますが、それらについてはまた機会があればまとめてみたいと思います。
改めてあの頃の電車通学を振り返ると、鉄道好き、そして国鉄型車両好きとしてはかなり楽しい経験だったことに気づかされます。
それだけに、なぜあの頃鉄道写真の撮影をしていなかったのかという悔いはあります。
もしあの頃にタイムスリップして大学生に戻れるなら、大学での勉強の学び直しはもちろん、通学中に出会ういろいろな列車や車両を片っ端から撮影しまくりたいです。
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遠距離通学 鉄ちゃん目線の思い出 その2 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
鉄道好き目線での私の大学時代の思い出、今回も続きます。

前回は主に東京ー千葉間で利用した総武快速線の当時の思い出を振り返りましたが、それに続いては千葉ー蘇我間の短い区間ながら総武快速線との乗り継ぎで利用した内房・外房線の思い出です。
私が大学生だった当時の両線(というよりも総武本線・成田線・鹿島線・東金線を含めた房総・北総エリアのほとんどの路線は)総武快速線同様スカ色の113系の天下でした。
しかも、総武快速線の車両よりも外観や社内などにいろいろなバリエーションがありました。
車両更新工事の施工の有無による社内の壁面や座席の色や形態の違いはもちろん、その他の車両の細部まで見れば車両によってさまざまな違いを見つけることができました。
また、1990年代前半でも都心部では希少になっていた非冷房車がまだ普通に定期列車に使用されていたり、予備者不足だったかの理由で宇都宮線の小山電車区から貸し出された115系が113系と同じスカ色に塗り替えられて113系に混じって走っているなど、今から振り返るとなかなか興味深い存在でした。

そして、総武快速線と複々線で並走する総武緩行線(各駅停車)もよく利用しましたし、たとえ乗らなくても快速に乗車しながら追い抜いたりすれ違ったりして非常に身近な路線でした。
当時の総武緩行線も、JR化後に投入されたわずかな205系を除けば103・201系の国鉄型電車の天下でした。
最大勢力の103系は、編成両端のクハ103が初期の低窓スタイルのものと後期の高窓スタイルのものとがあり、中間車も初期者から最終増備に近い車号のものまでバラエティーに富み、103系好きには楽しい存在でした。
特に、当時すでに関東では数少なくなっていたモハ103+モハ102の初期車(モハ103-7+モハ102-7のユニット)が5・6号車に入った編成を見かけたり乗車した時には、何だかその日はいいことがありそうな気がしたりして(笑)
それに対して201系は、中間に試作車900番台を組み込んだ2編成以外にはこれといった特徴のある編成もありませんでしたが、個人的には黄色い201系は好きでしたし、乗り心地は103系より201系の方がよかったのは確かです。
最大在籍時でも3編成しかない少数派だった205系は、黄色帯の姿のレアさはあっても車両自体は他線で乗る同形式とほぼ変わらないので新鮮味はありませんでしたが、今から思うとこれも「出会えたらラッキーな編成」だったのかもしれません。

大学時代の通学で利用した鉄道の思い出、次回も続きます。
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遠距離通学 鉄ちゃん目線の思い出 その1 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
前回の記事では、私が大学時代、埼玉県某市から千葉県千葉市の大学へ片道約3時間の遠距離通学をしていた時のことを書きました。
今回はその続きで、この遠距離通学の鉄道好き目線で見た思い出を振り返りたいと思います。

前回の記事でも書いた通り、私の大学時代の通学経路は、
自宅最寄り駅から西武線で池袋へ→山手線上野経由で東京へ→総武快速線+内房・外房線、または京葉線で蘇我へ→徒歩化バスで大学へ
というものでした。

まず、東京ー千葉間で利用していた総武快速線は、卒業も近くなった1994年12月にE217系が登場したものの、基本的にはスカ色の113系1000・1500番台の天下でした。
総武快速線(と横須賀線)の113系普通車は、外観上大きな特徴のある車両はあまりいなかったものの、車内に関しては更新工事の有無や座席モケット・壁面の化粧板・床の色などに車両によって仕様の細かな違いがあり、乗るたびにどのような車両に当たるか、113系好きとしてはとても楽しかったです。
また、1990年代に入ると首都圏の113・115・415系といった国鉄型近郊型電車にはロングシート改造車や普通車全社がロングシート化された編成も登場していましたが、総武快速・横須賀線の113系ではロングシート車こそあったものの、全社ロングシートの編成はなく、私がいつも通学時に乗車する定位置の車両には通常ロングシート車が入ることがなかったのは、クロスシート車両の好きな私にとってはありがたいところでした。

そんな総武快速線の113系での通学時間の思い出はいろいろありましたが、やはり昼頃千葉から東京方面へ利用するときに、千葉駅で購入した駅弁を113系のボックスシートでよく食べたのはいい思い出です。
その他にも、利用する時間によっては当時全国で唯一千葉地区にだけ残っていた荷物電車(クモユニ143)による「新聞電車」とのすれ違いを楽しむことが出来たり、各種の臨時列車との偶然の出会いなどのお楽しみもあり、113系での「プチ旅」気分のひと時が、遠距離通学の中のよいアクセントになっていたと思います。
ただ惜しかったのは、通学定期ではたとえグリーン券を購入してもグリーン車を利用することができなかったため、2階建てグリーン車(サロ124)や一部の編成に組み込まれていた特急型電車改造のサロ110形などでの贅沢な通学時間を楽しむことができなかったことですが…

次回もこの話題を続けます。
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若さと「鉄」のなせる業 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:電車(バス)通学、してる?してた?

少し前に、幼稚園年長の時に卒園までの5か月間ほどの間電車通園をしていた時のことを書きましたが、今回は大学時代の話です。

以前も書きましたが、私の進学した大学は千葉県千葉市にあり、私は4年間、埼玉県某市の自宅から遠距離通学をしていました。
大学の最寄り駅はJR内房・外房・京葉線の蘇我駅で、そこから徒歩かバスで学校へ向かっていました。
現在であれば、自宅最寄駅から西武戦に乗り、西武池袋線と東京メトロ有楽町線の直通電車で新木場へ。そこからJR京葉線で蘇我へ向かうのが、最も乗り換え回数が少なく、しかもおそらく最短時間で楽に乗り継げるルートかと思われます。
しかし、私が通学していた頃はまだ西武線と有楽町線の相互直通運転は本格化しておらず(西武有楽町線練馬ー新桜台間の開業は確か4年生だった1994年末だったと思います)、このルートでの通学は不可能でした。
そのため当時の私の通学ルートは、
西武線で池袋へ→山手線上野経由で東京駅へ→総武快速線+内房・外房線、または京葉線で蘇我へ
という物でした。
東京駅からのルートが2つあるのは、当時の東京ー蘇我間は定期券でも総武線経由と京葉線経由との選択乗車が可能で(定期券の券面上は京葉線経由の表示がされており、総武線経由の場合でそのルート上の駅で途中下車や乗車をする場合は駅員のいる改札を通れば入出場できた)、急いでいるかどうかやその時の気分、立ち寄る場所の都合などで使い分けていたからです。(この選択乗車が今も可能なのかどうかはわかりませんが)
この通学ルートの所要時間はおおよそ3時間前後で、例えば朝9時から始まる第1限目の授業に出ようとすれば、6時頃に自宅を出ないと間に合わないという具合でした。
大学入学に当たって、大学近くで一人暮らししようとは特に考えず、何となく遠距離通学することを決めましたが、入学して最初の1ヶ月ほどは、往復6時間ほどの通学を平日のほぼ毎日続けるのはさすがに自分には厳しいのではないかと少しだけ後悔しました。
しかし、しばらくすると体力的にも精神的にも少しずつ遠距離通学にも慣れていき、そのまま卒業まで遠距離通学を続けることができました。
時には、その日受ける授業の時間割やその他の予定の都合で、昼間に時間がぽっかりと空くことがあり、そのためこのコースを1日に2往復または1往復半して昼間に一時自宅へ帰るなどということも何度かありました。
今から思えば、あの頃こんなことができたのも体力的な若さとともに、根っからの「鉄ちゃん」ゆえ長い通学の道中を楽しむ力が知らず知らずのうちについていたことが理由だったのかもしれません。
さすがにあれから30年前後経過した今、再びこんな生活をしなければならないとしたらかなり憂鬱になりそうですが…


次回はこの遠距離通学の、鉄道好き目線での思い出について書きたいと思います。
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