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【鉄道旅の思い出】初めての関西鉄道旅の思い出 その8 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
1991年GWの、初めての関西への鉄道旅の思い出の振り返り、今回で最終回です。

山陽電鉄に乗り入れた阪神電鉄の特急で須磨浦公園駅から阪神梅田駅に着いたのが17時少し前のこと。
この夜には寝台急行「銀河」で関西を後にするので、朝からの関西の私鉄の乗り歩きもひとまず一段落としました。
ただ、「銀河」の大阪駅発車は22時台なので、それまでの空き時間の長さはやや微妙。
かといってこれからどこかへまた乗り鉄しに行くのも何となくかったるいので、とりあえずJR大阪駅へ。
大阪駅構内はやはり夕方で混雑していましたが、その中をあえて「銀河」発車時刻よりもかなり前に大阪駅に来た理由は、この当時まだ健在だった大阪・新大阪始発の九州・東北方面へのブルートレインが見たいため。(当時、残念ながら鉄道写真の撮影は休止中でした)
「日本海」「なは」「彗星」「あかつき」と、どれも関東にいてはみることのできない列車ばかりが次々に大阪駅を発車していくのはブルトレファンにとっては楽しい光景でした。
その他にも、キハ181系の特急「はまかぜ」や、381系の「しなの」などの関東では見られない列車や車両も多くみることができ、全く飽きることがありませんでした。

駅構内の店で夕食を食べ、列車ウォッチングをしているうちに、東京駅まで乗車する「銀河」の発車時刻が迫ってきました。
22時少し前に「銀河」の発車する10番線に上がり、乗車する号車の乗車位置で待っていると、発車10分ほど前に宮原操車場からの回送でEF65PFに牽引された24系25形客車の「銀河」が入線。
(確か)10号車に乗り込んでしばらくすると、22:20頃に「銀河」は大阪駅を発車。
実は幼い頃からのブルートレインファンでありながら、急行列車とはいえブルートレイン、というか寝台車に乗ったのはこの時が初めてで、初めてのブルートレイン体験に何だか子供のようにワクワクしっぱなしでした。
23時頃に京都駅を出ると車内の人の動きも少なくなり、同時にこちらも眠気が襲ってきたのでいつもより早めに就寝。
途中何度か目が覚めながらも6時少し前に平塚か茅ケ崎あたりを通過する頃まで眠ることができました。
そして、「銀河」は定刻6:42(だったと思う)に東京駅に到着。
この後山手線と西武線を乗り継いで自宅へ帰り、初めての長距離乗り鉄旅となった関西への遠征は無事終わりました。

初めての関西への乗り鉄旅を振り返りました。
何しろ30年前のことなので記憶があやふやな部分がかなりありましたが、思い出しながら記事を書いていると懐かしい気分になってきます。
この旅で乗車した車両や列車の中には今ではもう見たり乗ったりすることのできないものも多く、その点でも30年という時代の流れを感じてしまいます。

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【鉄道旅の思い出】初めての関西鉄道旅の思い出 その7 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
1991年GWの、初めての関西への鉄道旅の思い出の振り返り、もう少し続きます。

阪急梅田駅から阪急神戸線の特急に乗車して到着したのが、神戸市内を走る神戸高速鉄道の新開地駅。
この時点で時刻は14時半を少し回ったところ。
関西からの帰りに乗車する寝台急行「銀河」の発車まではまだ時間があるので、もう少し私鉄乗り歩きを続けます。
新開地駅で阪急特急から乗り継いだのは、山陽電鉄の姫路行特急。
当時は阪神梅田ー山陽姫路間の直通特急はまだなく、この列車も阪神の大石駅か阪急の六甲駅始発だったと思われます。
車両は当時最新形式だったセミクロスシート車の5000系で、大都市の近く間をクロスシートに座って移動できるのも、当時の関東ではあまり体験できないことでした。
新開地から10分少々の山陽須磨駅で普通電車に乗り換え、次の須磨浦公園駅で下車。
この駅は当時、山陽電鉄に乗り入れた阪急や阪神の列車の乗り入れ区間の西端でよく駅名を目にしていたので、どんな所か行ってみようと行程に組み込みました。
実際に行ってみると、ここが神戸市内なのかと思うほど静かな駅で、乗客の姿もあまり見かけなかった記憶があります。

須磨浦公園駅からは、阪神線直通の阪神梅田行き特急に乗車。
乗車した8000系はもちろん車体上半分がクリーム、下半分が赤の「赤胴車」塗装でした。
阪神三宮(現 神戸三宮)を過ぎて特急運転の区間に入ると、先ほど乗車した阪急神戸線の特急とはまた違った、ともすればスリリングにも感じるような高速運転を味わうことができました。

阪神特急に乗車して須磨浦公園駅から1時間弱で阪神梅田駅に到着した時には、時刻は17時近くになっていました。
「銀河」で関西を離れるまでの残り時間がやや微妙な長さになって来たので、ひとまず今回の私鉄乗り歩きは終了としました。
次回、初めての関西乗り鉄旅の振り返り、最終回です。
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【鉄道旅の思い出】初めての関西鉄道旅の思い出 その6 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
1991年GWの、初めての関西への鉄道旅の思い出の振り返り、まだまだ続きます。

京阪特急と阪急京都線の特急で京都まで往復して、11半少し前に阪急梅田駅に到着。
阪急梅田駅は全国の私鉄でも最大規模のターミナル駅で、写真では何度も見たことのあった9線あるホームは、実際に行ってみるとやはり関東にはない規模に驚くやら感動するやら。
そしてそれらの線路に阪急マルーンの電車が発着する光景はさすが阪急と思わせてくれるものでした。
さて、梅田からは宝塚線の急行で宝塚駅へ向かいました。
乗車した宝塚線急行の発車は、同じく梅田が始発の京都線・神戸線の特急と同時刻。
これも写真や映像で見たことのある3線同時発車のシーンを体験することができました。
3列車がピタリ同時発車とはいかなかった記憶はありますが、それでも梅田駅から十三駅までの三複線区間での3列車の並走は関東ではなかなか見られないもので、これを味わえただけでも関西に来たかいがあったというものでした。
梅田から30数分で宝塚駅に到着。ここで今津線に乗り換えて西宮北口駅へ向かいました。
西宮北口の駅前で昼食の後、今度は神戸線で梅田駅へ戻り、折り返して再び神戸線の新開地行特急で神戸高速鉄道線の新開地駅へ向かいました。
当時の神戸線特急も現在と比べ停車駅が少なく、梅田を出て十三・西宮北口と停車した後は三宮(現在の神戸三宮)駅までノンストップでの運転で、しかも神戸線には2~3編成しかないセミクロスシート車組み込みの8000系に乗れたので快適度も高かったです。
そして、この神戸線特急に限らず阪急電車の車内は関東では見られない落ち着いた内装で、特に独特の座席の色や掛け心地、手触りが気に入りました。

神戸線特急は、三宮から先は神戸高速鉄道線に入り、梅田から35分ほどで終着の新開地駅に到着しました。

次回、山陽電鉄と阪神線を乗り歩きます。

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【鉄道旅の思い出】初めての関西鉄道旅の思い出 その5 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
1991年GWの、初めての関西への鉄道旅の思い出の振り返り、まだまだ続きます。

関西への初鉄道旅の2日目は、主に私鉄を乗り歩き、夜には寝台急行「銀河」で関西を後にします。
朝8時前に宿泊した大阪駅近くのビジネスホテルを出て、まずは地下鉄御堂筋線で梅田駅から淀屋橋駅に移動し、ここから京阪で終点の出町柳駅へ向かいました。
乗車したのは8000系の特急。当時は現在の8000系編成に組み込まれているダブルデッカーやプレミアムカーがまだない時代でした。
先頭車の運転席直後のシートに座ったところで淀屋橋駅を発車。
京橋駅からの複々線区間での快走ぶりや運転室越しの前面展望を楽しみながら出町柳駅へ向かいました。
当時の京阪特急は現在よりも停車駅が少なく、特に大阪市内の京橋から京都市内の七条駅までの30分以上ものノンストップ区間は、関東では優良特急以外ではあまり例のないもので、この点でも関西の私鉄特急の充実ぶりがうかがえました。
乗車した列車では新人運転士の教習が行われていたようで、運転室直後の座席にいるとそれらしき声もちらほら漏れ聞こえてきました。

京阪特急で出町柳駅に着いた後は、京阪電車で四条駅(現 祇園四条駅)まで戻り、四条河原町の街を少し歩いて阪急の河原町駅へ移動。
ここからは阪急京都線の特急で阪急梅田駅へ向かいます。
当時の阪急京都線特急はまだ先代の特急車6300系が主力として活躍していた時代でした。
6300系も私にとっては子供の頃からのあこがれの車両の一つで、河原町駅のホームで初めて生で見た時にはやはり少々興奮を覚えました。
阪急京都線の特急も当時は現在よりも停車駅が少なく、京阪よりもカーブが少なくスピードも速く感じる6300系特急の走りは最高でした。

河原町駅から40分ほどで京都線特急は終点の阪急梅田駅に到着。
この後も、阪急の各線を乗り歩きます。
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【鉄道旅の思い出】初めての関西鉄道旅の思い出 その4 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
今回もまた、1991年のGWに初めての長距離の鉄道旅として関西へ出かけた時の思い出を振り返ります。

大阪環状線から関西本線(大和路線)に乗り入れる221系の「大和路快速」で奈良駅に着いたのが15時少し前。
ここからは、奈良線で京都駅へ向かいました。
乗車したのは、この年3月のダイヤ改正で奈良線に登場したばかりの快速電車。現在、JR奈良線の快速には日中を中心に「みやこ路快速」の列車名が付いていますが、当時はまだ愛称のない単なる「快速」で、車両も現在のような221系ではなく国鉄型の117系でした。
117系は、私にとって関西に行ったらぜひ乗りたい車両の一つで、ついにその長年の願いが実現したというわけです。
もっとも、それが117系が本領を発揮していた東海道・山陽線の新快速でなかったことは残念でしたが…

奈良駅のホームに入って来た117系は、製造当時からのクリーム色と茶色帯の塗装のままで、これも茶色の重厚な転換クロスシートの座席に座ると何だか気持ちが落ち着きました。
やがて117系の奈良線快速は奈良駅を発車。
快速とはいっても現在より単線区間の多い奈良線のことゆえ、新快速で京阪神間を快走するときのような走りはもちろん期待するべくもなく、スピードの点ではやや物足りない感じもあった奈良線快速でしたが、117系の乗り心地自体は満足のいくものでした。

奈良駅から50分弱で到着した京都駅から先は、正直次はどこへ行くか決めてはいませんでした。
京阪神ミニ周遊券の自由周遊区間のことも考えながら、京都駅の在来線ホームをぶらぶら歩いていたら、東海道線(JR京都線)のホームに、スカイブルー塗装の103系が京都始発の西明石行普通電車として停車しているのを発見したので、時間に余裕もあるので乗ることにしました。
関西地区の東海道・山陽線(JR京都・神戸線)各駅停車の103系は、京浜東北線と同じスカイブルーの塗装で、生まれて初めて接した国鉄電車の一つが京浜東北線の103系である私にとってはとても親近感のもてる車両でした。
当時東海道・山陽線の103系は運用が朝夕だけに限定されていたので、夕方のラッシュが始まる直前(16:20前後)の時間にゆっくり乗車できるのはラッキーでした。

京都駅を発車した103系の西明石行普通電車は、駅間距離が長い区間が多いためか各駅停車とはいってもかなりの高速で飛ばし、先ほどの奈良線快速とは打って変わっての高速運転にテンションが上がりました。
それはもしかすると関東の常磐線快速や武蔵野線・京葉線あたりを上回る速さなのではと感じる走りっぷりでした。

103系の高速運転を楽しんでいるうちに京都駅から50分ほどで大阪駅に到着。
この日は大阪駅からほど近いところにあるビジネスホテルに宿を取ってあったので、前日からほとんど眠っていないこともあり早めに宿へ入ろうかとも考えましたが、まだ陽も出ていて明るいのでもう少し乗り鉄を続けることにし、大阪環状線の外回り電車に乗り換えて天王寺駅へ向かいました。

天王寺駅かで乗り換えたのは阪和線。できれば阪和線としての終点の和歌山駅まで乗りたいところでしたが、さすがにそこまで行くと戻りが遅くなるので、天王寺から途中の鳳駅まで行き、そこから分岐する東羽衣駅までの支線に乗り継ぐルートを往復することにしました。
現在では快速・普通電車が転換クロスシート車の223・225系に統一された阪和線ですが、1991年当時はまだこれらの形式や関西空港方面への列車もなく、「紀州路快速」などの愛称名もなかった阪和線の快速・普通電車は103系が主力で時折205系や113系が混じるという状況でした。
私が乗車したのは103系の和歌山行快速。
先ほど京都から大阪まで乗車したのと同じスカイブルーの塗装ですが、東海道・山陽線普通電車ほど猛スピードで飛ばす場面はなく、何となく西武池袋線や新宿線の急行を思わせる走りに感じた記憶があります。
鳳駅に着くと、東羽衣への支線のホームへ移動。
ここで乗り換えるのも同じスカイブルーの103系(ただし編成はここまで乗ってきた快速が6両編成だったのに対し3両編成)。
東羽衣行は支線とはいっても結構な数の乗客を乗せて鳳駅を発車。
わずか3分ほどで終点の東羽衣駅に到着しました。

東羽衣から折り返しの鳳行で戻り、さらに天王寺行快速と大阪環状線を乗り継いで19時過ぎに大阪駅へ戻り、関西初乗り鉄の一日目は終了となりました。

次回からは、関西初乗り鉄の思い出、2日目編です。
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【鉄道旅の思い出】初めての関西鉄道旅の思い出 その3 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
前回に引き続き、今回も1991年のGWに初めての長距離の鉄道旅として関西へ出かけた時の思い出を振り返ります。

大垣駅から113系の加古川行と221系の姫路行新快速を乗り継いで、9:30頃に大阪駅に到着。
一旦改札を出てコインロッカーに荷物を預けて身軽になり、再び改札を入り、関西の鉄道乗り鉄旅が本格的にスタートしました。

この日は主にJR線を乗り回ることにし、まずは大阪環状線ホームへ向かいました。
ホームへ上がり、ちょうどやって来た内回り電車に乗車します。
当時の環状線はオレンジ色の103系の天下で、時折「大和路快速」の221系と特急「くろしお」の381系とすれ違うくらいで、関西空港方面への列車が加わった現在ほどには車両や列車のバラエティーは多くない時代でした。
しかし環状線で走る103系には関東では数少なくなっていた初期の車両も多く、この時乗車したクハ103形も2桁ナンバーの初期車でした。
大阪駅で乗車した内回り電車で環状線を一周し、さらにそのまま乗車して2周目の途中の弁天町駅で下車しました。
こういうことが堂々とできるのも、周遊券(京阪神ミニ周遊券)を持っているからこそです。

弁天町で下車したのは、当時同駅の高架下にあった「交通科学博物館」を訪れるためでした。
交通科学博物館は、2014年に「京都鉄道博物館」への移転という形で閉館するまで、東京神田にあった「交通博物館」とともに東西の2大鉄道・交通系の博物館となっていた博物館で、幼い頃から何度も交通博物館に行っていた私としては一度行ってみたかったスポットでした。
弁天町駅の改札を出て交通科学博物館に入館すると、やはりGW中だからか家族連れが多く来ている印象でしたが、混雑しているというほどでもなく、ゆっくり展示車両や模型運転などを見て回ることができました。
さらに展示車両の一両でもあり、実際に食堂として営業していた20系ブルートレインのナシ20形食堂車(現在の京都鉄道博物館でも展示中)で昼食を食べたりして、気が付いてみると3時間ほど夢中で缶内を歩き回っていました。

交通科学博物館を出て弁天町駅に戻った時には、時刻は14時近くになっていました。
ここから乗車したのは、221系の「大和路快速」加茂行。
幸いクロスシートに座ることができ、都心部の路線で普通にクロスシート車両に乗れるという、同じ環状路線でも東京の山手線ではできない楽しみを味わいつつ、天王寺駅からは関西本線(大和路線)に入りました。
大和路船内ですれ違う103系電車は、関東人には山手線を思い出させるウグイス色の塗装で、懐かしい気分にさせてくれました。
そして、弁天町駅から40数分で「大和路快速」は奈良駅に到着。
私はここで奈良線の会則に乗り換えて今度は京都駅を目指します。

次回もまだまだ続きます。
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【鉄道旅の思い出】初めての関西鉄道旅の思い出 その2 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
前回に引き続き、1991年のGWに初めての長距離の鉄道旅として関西へ出かけた時の思い出を振り返ります。

東京駅からの夜行普通電車(大垣夜行)で朝7時前の大垣駅に到着。
この駅で、10分ほどの接続時間で接続する、ここから先の京都・大阪・神戸方面への接続列車となる大垣始発の加古川行に乗り換えます。
大垣夜行の到着したホームと、加古川行が発車するホームは隣同士ながら、双方を行き来するには跨線橋を渡らなければならず、しかも編成量数は大垣夜行が11両編成なのに対し加古川行は4両(確か米原あたりから増結があったと記憶しています)と短く、加古川行の座席確保のための「大垣ダッシュ」も有名でした。
大垣夜行の乗客もそこそこ多かったので私も加古川行に座れるかどうか不安でしたが、どうにか進行方向右手のボックスシートに座ることができました。
この加古川行の車両は、当時まだ関西地区の東海道・山陽線快速での活躍が続いていた湘南色の113系。
車両自体は当時首都圏や静岡・名古屋エリアでも普通に乗ることができた車両でしたが、乗車した車両の所属は当時のJR西日本網干電車区(現 網干総合車両所)で、それだけでも関西に一歩近づいたのを感じました。
加古川行は途中京都駅までは各駅停車でその先は西明石まで快速運転となっていましたが、途中の野洲駅で同駅始発の姫路行新快速に乗り換えると、大阪駅には加古川行よりも10分少々早くつけることが分かりました。
この程度の違いなら、わざわざ乗り換えずにこのまま乗り通してもいいやとも思いましたが、やはり関西の列車に乗りに行くなら新快速に乗らない手はないということで、野洲駅に着いたところで加古川行を降り、新快速に乗り換えました。
乗り換えた新快速は、当時まだまだ新しかった221系。
幸い野洲始発の列車なのでやはり進行方向右手のシートを確保できました。
載ってみると、221系は窓が大きく、転換クロスシートの座り心地も快適で、この当時すでにロングシート車が増えつつあった関東の211系当たりとの差を実感しました。
乗車した新快速は8:30頃に野洲駅を発車。
京都駅に近づいたあたりで先ほどまで乗車していた加古川行を追い抜き、京都からはいよいよ新快速の高速ぶりを堪能できる区間に入りました。
当時の関西の新快速の運転最高速度は今よりも低い120km/hでしたが、関東では当時味わうことのできなかった高速ぶりにすっかり大興奮。
さらに京都から大阪にかけてはすれ違う列車や追い抜く列車のバラエティーも豊富で、それにもテンションが上がりっぱなしのまま、9:30頃に大阪駅に到着。
私はここで新快速を下車し、大阪環状線に乗り換えました。

次回も続きます。
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【鉄道旅の思い出】初めての関西鉄道旅の思い出 その1 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
少々久しぶりの、過去の乗り鉄旅の思い出シリーズです。
今回は、1991年のゴールデンウィークに、初めての本格的な長距離の鉄道旅として関西の鉄道に乗りに行った時のことを振り返ります。

高校時代は懐具合の関係もあり、乗り鉄を楽しむのも関東とその周辺がほとんどでした。
そのうちに受験勉強が始まり、さらにその後の浪人生活もあり、乗り鉄などの本格的な「鉄」活動が思うようにできない状況が続きました。
無事一浪の末1991年の春に第2志望の大学に合格し、これで大手を振って「鉄」活動ができるようになりました。
春休み中はあれこれバタバタしていて日帰りで近場で乗り鉄をした程度でしたが、GWは大学の創立記念日との関係もあって休みが一週間ほど続くので、この機会にいよいよこれまでできなかった長距離の鉄道旅をしてみることにしました。
どこへ行こうかかなり迷いましたが、やはり初めての一人での長距離の旅ということと、日程の関係もあり、一度行ってみたかった関西の鉄道に乗りに行くこととしました。
この旅で使用した切符は、当時発売されていた「京阪神ミニ周遊券」でした。GW期間中ということで青春18きっぷは使えない(というかこの時期の発売がない)ので、大阪周辺のJR線を乗り回るにはこれが便利というのが理由でした。
また私鉄の方は、まだ会社間にまたがって利用できるフリーきっぷやプリペイドカードがほとんどなかったので、おそらく乗車の旅にその都度乗車券を購入して乗ったと思われ(鉄道会社によってはプリペイドカードを自動改札機に通す方式で運賃を支払うシステムを利用したかもしれませんが)、今から振り返るとこれも時代を感じます。

正確な日付は忘れてしまいましたが、GW中のある日の夜、関西へ向かうために東京駅へ向かいました。
東京駅から乗車するのは、当時東京から岐阜県の大垣駅まで運転されていた夜行普通列車375M(通称「大垣夜行」)。
グリーン車2両も連結した165系急行型電車による運転で、後年の「ムーンライトながら」と異なりグリーン車も含めて全社自由席でした。
私がこの大垣夜行に乗るのは初めてでしたが、18きっぷシーズンやGWには相当に混雑することは知っていたので、私も大垣夜行の発車4時間ほど前の20時前には東京駅の発射ホーム(確か当時の9番線)に上がりました。
ホームの大垣夜行の乗車位置にはすでに各ドア5人ぐらいが並んでいましたが、まだこの程度では余裕で着席できるレベルで一安心。
ほとんどの人が新聞紙などをホームに敷いてホームに座っている状況で、グループでポータブルの液晶テレビで野球を見ていたり、これもポータブルの将棋盤を使って将棋をやっている人がいたりと、思い思いの方法で発車までの時間をつぶしていました。
そのうち、23時半頃になって大垣夜行となる165系が入線し、私も含めて待っていた乗客が乗り込みました。
東京駅発車時の乗車率はボックスシートがほぼ埋まる程度で、噂に聞いたようなとんでもない大混雑という状況ではありませんでした。
その後の停車駅でも、私の乗車した車両に限って言えば乗車率に大きな変動はなく、わりと落ち着いた雰囲気で終点まで乗車することができました。

大垣夜行は23:40、定刻に東京駅を発車。
小田原駅まで各駅に停車した後、深夜の(事実上の)快速運転区間に入ります。
小田原からは車内放送も亡くなり、窓の外も真っ暗で何も見えないこともあり、車内はいたって静か。
そうなると眠気が襲ってきそうなものですが、初めての長距離鉄道旅ということで少々興奮していたためか、なかなか眠れません。
2時半前後に到着した静岡駅では、これも噂に聞いていた深夜の駅弁販売が行われているのも見ることができました。私自身はホームに出ることなくスルーしてしまいましたが、今から思えば一度でいいから深夜に駅弁を味わうという体験をしてみたかったものです。
静岡駅に続いて停車する浜松駅では時間調整と高速貨物列車待避のため30分ほどの停車。
相変わらずほとんど眠れないことと、動かない列車内で30分ずっと発車を待つのもつまらないので、ホームへ出て外の空気を吸ったり、通過していく貨物列車や上りホームで運転停車する上りのブルートレイン(時間帯からしておそらく「瀬戸」か「あさかぜ2号」だったと思われます)を眺めたりして時間をつぶしました。

豊橋駅からは再び(ほぼ)各駅停車の区間に戻り、確か岡崎駅あたりで車内放送も再開。空も明るくなってきて朝が来たことを実感します。
やがて進行方向右手の車窓にパノラマカー7000系をはじめとする名鉄電車が頻繁に現れるようになって、いよいよ名古屋まで来たことを実感しながら、6時を回った頃に名古屋駅に到着。
そして、大垣夜行は7時少し前に終点の大垣駅に到着。
大垣駅といえば、この大垣駅から京都・大阪方面へと乗り継ぐ乗客が乗り継ぎ列車の座席を確保するために跨線橋を駆け上がる通称「大垣ダッシュ」が有名でした。
私もそのことはもちろん知ってはいましたが、問題の大垣駅の跨線橋が何号車付近にあるのかがわからず、実際に私の乗った号車は跨線橋から少し離れていたため、果たして大垣から乗り継ぎ予定の当駅始発加古川行に座れるかどうか不安でしたが、18きっぷシーズンほどの混雑ではなかったせいもあるのか、何とか加古川行の113系のクロスシートに座ることができました。

次回に続きます。
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もしかして、時代を先取りしていた? [視覚障碍者としてのあれこれ]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:5年前、何してた?

5年前というと、私が今も務めている会社(某運輸系企業の特例子会社)に入社したのが、ちょうど5年前の今頃でした。(正式な入社日は9月26日でしたが)

昨日の記事でも書いた通り、私は視覚障害者となった後に埼玉県所沢市にある国立障害者リハビリテーションセンターで歩行訓練などを受けましたが、そこでの訓練を修了した後、引き続き同じ敷地内にある国立職業リハビリテーションセンターで音声パソコンの操作の訓練を受けました。
この施設は、様々な障害を持つ人が職業訓練を受け、修了後に企業や作業所などへの就職を目指すための施設で、修了が近づくと日々の訓練と並行して企業などへの就職活動が始まります。
私の場合は、私とほぼ同じ2015年7月に入所した他の訓練生と比べるとやや遅めながら、翌年6月に入って就活をスタートしました。
センターに届いている求人のリストの中から、自分にできそうな仕事を見つけて履歴書を送るという方法で就活を進めることになりました。
私はかつて、新卒の際も、その後転職を決めて再就職を目指していた時も、就活では相当に苦労した経験があるため、この時の就活でもかなりの長期戦を覚悟していました。
しかし、非常にラッキーなことに実質的に最初に履歴書を送った会社からすぐに面接をしたい旨連絡があり、その結果その会社に就職することになりました。で、その会社というのが今も務めている会社というわけです。

今務めている会社は、社員のほぼ全員が何らかの障害を抱えていて、かつコロナ禍のずっと前からほとんどの社員が在宅勤務というのが特徴です。
私は就活の際、在宅勤務かどうかにはあまりこだわらず、自宅から無理なく自力で通えるようであれば電車やバスでの通勤でも構わないと思っていましたが、幸い在宅勤務が基本の会社ということで、通勤時に事故などに巻き込まれるリスクがないので、私にとっても渡りに船という感じで入社を決めました。

以来、私はこの会社で在宅勤務を続けています。
5年前は、まさか在宅勤務(テレワーク)がここまでメジャーな働き方になるとは想像もできませんでしたが…
結果的に、私は、ある意味時代を先取りした働き方をしていた、ということになるんですかね?
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「思い出」とはちょっと違うけれど [視覚障碍者としてのあれこれ]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:選挙の思い出

正直「選挙の思い出って何ですか?」と言われても、取り立てて話題にすることがないんですよね。
(もちろん、2~3回棄権してしまったことはあるものの、あとはちゃんと投票には行ってますが)
投票所が母校や自分にとって何らかの縁のある場所なら、投票に行くついでに久しぶりに母校に行ってみたりするというようなこともできるけれど、私の場合は40年以上住んでいる地域にもかかわらず、投票所は区割りの関係からなのか母校ではない別の中学校だということもあり(ちなみに、私の母校の中学校も公立で、そちらも投票所になっていました)、正直なところ毎回淡々と一票を投じてくるのみという状況です。
中学・高校時代の生徒会長の選挙にしても、思い出してみてもほとんど記憶に残るような出来事もありませんでした(私自身も出馬したり生徒会長選挙にスタッフとしてかかわったりしませんでしたが)

そんな私でしたが、視覚障害者になったことで、選挙の投票に関してもそれまでとは違った経験をすることになったので、今回はそのあたりについてちょっと書きたいと思います。
私が視覚障害者になって初めての選挙は、2014年12月の衆院選でした。この時、私は歩行訓練や生活訓練などのため埼玉県所沢市の国立障害者リハビリテーションセンターに入所し、同センターの寮で生活しながら訓練を受けていました。
そういう状況で衆院選の投票日が近づきました。
ここで問題になるのが、寮生活をしている私のような訓練生の投票をどうするかということになります。
遠方から来ている訓練生の中には投票に合わせて地元に帰り、地元で投票する人も多いですが、私はセンター内で投票日前に投票するという方法を選びました。

正式な投票日の数日前、センター内の会議室を使って、(たぶん)県の選挙管理委員会の職員の方の出張で投票が行われました。
視覚以外の障害の人がどのように投票をしたのかはわかりませんが、私のような視覚障害者の場合はおおむね下記のような感じでした。
まず、その日投票する人が会議室に集まり、一人ずつ別の部屋に呼ばれて投票を行います。
部屋には(確か)2人の選管の職員がいて、うち一人が選挙区選挙の候補者の党名と名前を順に読み上げていき、すべて読み上げたところで私がだれに投票するかを口頭で伝えます。もう一人の職員の方はおそらくそれを投票用紙に代筆してくださっていたのだと思います。
次に比例代表選挙区の投票に移り、ここでも党名の読み上げが全部終わった後、私が投票する党を伝え、投票は終わりました。
このやり方での投票は、翌年4月の統一地方選挙での投票でも経験し、おそらく現在もセンターでは同様な方法で出張による投票が行われているのではないかと思います。
ちなみに、センターでの寮生活を終えて自宅へ戻った後は、投票所へは家族とともに向かい、受付を済ませた後は投票所のスタッフの方に投票用紙を記入する代まで誘導していただき、ここで候補者名や党名を読み上げていただきます。
そして、私が投票しようと思っている候補者名を(小声で)誘導してくださっているスタッフの方に伝え、その方に代筆していただいた投票用紙を投票箱に入れるという方法で投票をしています。

将来的に、ネットでの国政選挙や地方選の投票ができるようになったら、もしかすると障碍者にとっての選挙のハードルも下がるかもしれず、今後の展開が注目されます。
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