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「都会のローカル線」が今や… [鉄道ニュース]

こんばんは、gonanaです。
鉄道好きの友人との少し前のメールのやり取りの中で、ちょっと盛り上がった話題の一つが、京急の空港線についてでした。
そこで今回は、私にとっては生まれ故郷の近くを走っているという点で親近感のある子の京急空港線について書いてみようかなと思ってます。

今でこそ、終日にわたり品川やその先の都心・成田空港方面、さらには横浜方面へのエアポート快特やエアポート急行が運転され、地元の京急はもちろん都営地下鉄・京成電鉄・北総鉄道(千葉ニュータウン鉄道所属車も含む)の各社・局の多様な車両がやはり終日にわたり盛んに行き交う京急空港線ですが、昭和の時代の空港線は空港アクセス路線というにはあまりにのんびりした「都会のローカル線」然とした路線でした。
昭和時代の空港線はその名に反して3両編成の線内ローカル列車が10分間隔くらいで行ったり来たりするだけの単純なダイヤが組まれていました。(昭和40年代の初めごろ、短期間だけ品川―羽田空港間の直通普通列車が運転されていた時期もあるそうです)
車両も昭和時代は230形や400形、500形といった旧型車が引退前の最後の職場として運用されることが多く、昭和の終わりごろにこれらの車両が姿を消して800形の3両編成が走るようになってやっと本線並みの車両が走るような状況でした。
空港線の始発駅である京浜蒲田(現在の京急蒲田)駅も今の姿からは想像もつかない小じんまりした駅で、京急本線の上り下り1線ずつの相対式ホームと、下りホームの反対側に発着する空港線用の1線があるだけでした。
そして何より、空港線の終点の羽田空港駅。
空港駅といってもその実態はよくある大手私鉄の短距離支線の終端駅といった風情だったのを記憶しています。
実際に当時の空港線電車に乗っても空港に向かう、あるいは空港からの乗客というのはほとんどいなかったようです。
一応、駅前から当時の羽田空港の旅客ターミナルまで連絡バスの便はありましたが、やはり利用客は少なかったようです。
このような状態だったので、京急空港線を羽田空港アクセスに使おうという人はかなり稀な存在で、羽田への軌道系交通機関といえば長い間東京モノレール一択という状況でした。
そんな空港線に一大転機が訪れたのが羽田空港の現在の位置への移転計画が出た昭和の終わり頃のことで、それから紆余曲折会って1998年になって空港線はやっと本物の空港アクセス鉄道になったというわけです。
その後の発展ぶりは皆さんご存知だと思いますが、おそらく平成30年を通して最も「大化け」した路線の一つといってもよいかもしれません。

そんな京急空港線の私の思い出ですが、生まれ故郷の近くを走っているにもかかわらず初の乗車は小学校高学年の頃だったと思います。
その理由は、私の生まれ故郷は空港線の走る沿線とはわずかに距離があり、空港線が身近な脚ではなかったためでした。
私が初めて空港線に乗車した時も、乗客の中に旅行客と思われる人は見かけず、車内はあくまでも日常の中の風景といった感じでした。羽田空港駅に着いてもバスに乗り換えて空港のターミナルへ向かうということもなく、すぐに折り返し電車で駅を後にしてしまいました。今にして思えば、羽田空港駅からの連絡バスのほうにも乗っておいたほうがよかったかもしれません。

今や、ある意味本線以上に京急の屋台骨を支える存在といえる空港線ですが、昭和の時代の、その名に似つかわしくないのんびりした都会のローカル線だった空港線の情景を思い出してみるのも、また楽しいかもしれません。

ところで、その京急空港線でもおそらく活躍したことがあると思われ、かつて埼玉県川口市内の公園で保存されていた京急230形デハ236号車が、修繕作業を終えて美しい姿で報道公開されたそうです。
詳しくはこちらから

京急デハ230形の修繕作業が完了、鮮やかな赤い車体で保存・展示へ (マイナビニュース)
https://news.mynavi.jp/article/20190604-keikyu230/

このデハ236が京急に里帰りし保存に向けた修繕が行われるという話はもちろん以前から知ってはいましたが、いよいよ新たな場所での保存展示が近づいたことを感じます。
私自身は京急時代のデハ230形には乗車した記憶がなく、わずかに高松琴平電鉄に譲渡された車両にその引退直前に一度乗車できただけでしたが、横浜みなとみらい地区にできる新しい京急グループ本社ビル1階にできるという「京急ミユージアム」での同車の展示が始まったら、ぜひ見に行きたいものです。

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