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まさに「生活の一部」 [ノンジャンル]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:ラジオって、よく聞く?

ハッキリ言って、「よく聞く」なんて程度のものではありません。
「ラジオを聴く」ということは、私にとってはもはや生活の一部といっていい習慣です。
もともと小学校5年生の頃にラジオを聴くことにハマって以来、現在までラジオを聴くことをやめた時期はありませんでしたが、20歳代後半になったあたりから、テレビにかつてほどの興味がなくなり、その後だんだんとテレビを見ない日はあってもラジオを全く聴かない日はほぼないという状況になっていきました。
そして、視覚障害者になった今、テレビの画像を見ることのできない私にとってラジオは重要な情報源です。
ニュースや天気予報、硬軟さまざまな情報を得ることはもちろん、時計がなくてもおおよその時刻を知ることができるのも、視覚障害者にとってはありがたいものです。
ラジオではテレビよりも現在の時刻がアナウンスされる機会が多く、テレビでは姿を消した毎正時の時報もほとんどの局で健在です。また、ラジオを聴く習慣が定着すると、番組やその中のコーナーやミニ番組などの開始や終了のタイミングでもだいたいの時間がわかるようになり、これもラジオの便利さです。

ラジオ大好き歴40年近い者としては、特に若い世代に「ラジオを全く聞いたことがない」とか「そもそもラジオってどうやって聴くのかわからない」という層が多いのは残念な所です。
テレビやネットは特に意識しなくても常に身の回りにあるものというイメージが強いのに対し、ラジオは自分や周囲の誰かがラジオを購入するとか、家やよく行く場所で流れていたりとか、ラジオ聴く習慣が根付くきっかけがないとなかなかその面白さや便利さに気づかない弱みがあるというのも、ラジオの不利な点かもしれません。
それでも近年は、パソコンやスマホでラジオを聴くことができる「radiko」サービスが定着したり、ラジオパーソナリティーの発言がネットニュースに取り上げられたりと、ラジオにとって明るい材料もあるのは事実です。

そして、ラジオに関しては、最近こんな変革も起ころうとしています。

AMラジオが終わるとき (ITmedia NEWS)
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1909/04/news023.html

もともとAMラジオでラジオの面白さを知り、その後も現在までFMよりも圧倒的にAMラジオを聴く時間が長く、番組内容としてもAMラジオ派の私にとっては、民放連がAMラジオ廃止の方針を打ち出した時には大変衝撃を受けました。
AMラジオになじんだ者にとっては、今でも例えばJ-WAVEのようないかにもFM的な放送局や番組はあまり好きではなく、AMがなくなることで既存のAMラジオの放送局や番組の雰囲気が一変してしまうのではないかという懸念も一瞬頭をよぎりました。
ただ考えてみると、AMラジオの番組をそのままFMの周波数でも聴くことのできる「ワイドFM」という放送方式も広がりつつあり、ワイドFMがスタートしてもAM局の番組が劇的に変わったかといえばそうでもないという事実からすれば、FMに一本化して運営コストが下がるのであれば、これも時代の流れなのかなという気もします。
いずれにしても、これを機に、ラジオは過去のメディアというような世間のイメージが変わるような時代が来ることを、ラジオ好きとしては願ってやみません。

今後も、たまにラジオがらみのネタも書いていこうかなと思っています。
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【乗り物中心】高校修学旅行の思い出④ 熊本→長崎→福岡 そして帰路へ [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。
九州への修学旅行の思い出、最終回です。

修学旅行4日目の朝、熊本市内の宿を出た私たちは、まずはバスで熊本城へ向かいました。
バスでの移動距離はわずかでしたが、その大半で熊本市電の走る道路を走りました。朝のラッシュ時とあって数両の電車と並走したり擦れ違ったりする中、路面電車ファン的にラッキーだったのが、当時熊本市電唯一の連接車であった5000形(元 西鉄福岡市内線1000形)と少しの間並走したこと。5000形は現在も西鉄時代の塗装に復元された1編成が現役のようですが、当時も基本的に朝ラッシュ時の限定運用となっていたので、見ることができただけでも何だか得をした気分になりました。
熊本城を見学した後は、今夜の宿泊地長崎への移動です。
熊本城から天草の鬼池港へ向かう途中では、JR九州三角線のキハ31と2~3分間並走する場面もありました。結局この修学旅行中にJR九州の列車の姿を眺めることができたのはここだけでした。現在のように特徴ある列車が多数走る時代にはなっていなかったものの、鉄道ファン的には少々物足りなくもありましたが、九州でしか見ることのできなかったキハ31に遭遇できたのは幸いでした。
鬼池校から島原半島の口之津港まではこの旅3度目のフェリーの旅となります。鬼池校から30~40分ほど乗ると口之津港に到着し、フェリーに積載していたバスに再び乗って長崎市内へ向かいます。
島原半島の中で具体的にどのあたりを通過したのかは記憶がはっきりしませんが、おそらく終始車窓には雲仙普賢岳の姿も見えていたことでしょう。普賢岳の噴火や火砕流災害があったのは私が修学旅行中に島原半島を通った翌年から翌々年にかけてのことで、通過した場所の中にはそれらの災害によって大きく姿を変えた場所もあるかもしれません。いずれにしてもこの時期に島原へやってきたのは今から思うとかなり貴重な経験だったようです。
長崎市内に入り、あとは市内のホテルへ向かうだけでしたが、夕方も近くなっていたので道路の混雑も激しいようでバスはなかなか先へ進みません。
そんな中、進行方向右側の車窓にひっきりなしに現れる長崎電軌の路面電車たちの姿は渋滞を忘れさせてくれました。残念ながら鹿児島・熊本も含め路面電車に乗る機会はありませんでしたが、いずれの都市でもバスガイドさんから簡単にではあるものの路面電車の紹介があり、路面電車が観光の面でも地域に根付いていることが感じられてファンとしては嬉しい限りでした。
ホテルでの夕食後は、長崎に落とされた原爆で被爆された方から体験を聞く会が開かれました。体験を話してくださった被爆者の方の語りからは、私たちが想像もつかないような悲惨な被爆の実態が感じられ、改めて原爆や戦争のない世界を築いていかなければならないという思いを新たにしました。
翌日は修学旅行最終日。
ホテルをバスで出発してカステラの工場(メーカー名は忘れてしまいましたが)を見学して、いろいろ変った味のカステラを試食したり工場直売品のお土産を購入したりしました。
その後は佐賀県を素通りして一気に福岡空港近くへ向かい、お土産屋さんで最後の九州土産の買い出しをし、空港へ向かいました。
福岡空港から羽田空港まで乗ったのは、確かJALのボーイング747だったと思います。羽田までの約1時間40分ほど、修学旅行のあれこれを思い出しながらイヤホンで落語など聞いて過ごしていましたが、途中で気流の関係かかなり揺れた場面もありました。
しかし飛行機は無事に羽田空港に到着。荷物を受け取った後空港の到着ロビーで解散となり、修学旅行は無事終わりました。

この修学旅行では、訪問した九州のいろいろな観光地はもちろん、道中で乗ったり目撃したりした乗り物も大きな思い出になりました。鉄道以外の交通機関の状況はあまりよくわかりませんが、鉄道車両に限って言えばその時乗車したり見た車両の中には今はもう思い出の車両となったものも多いことからも、30年の時の流れを感じます。
今後もし機会があれば、この修学旅行のルートをもう一度旅してみるのもよいかな、などとも思っています。

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【乗り物中心】高校修学旅行の思い出③ 九州初上陸 宮崎→鹿児島→熊本 [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。
高校時代の修学旅行の思い出の続きです。

大阪南港から鹿児島県の志布志港へ向かう夜行フェリーに乗船した私たちは、フェリーの桟敷席のカーペットの上で雑魚寝状態で修学旅行最初の夜を過ごしました。
朝目覚めると、天気は良いもののやや波が高いようで少し船の揺れも大きかったのを覚えています。
朝食は確か指定された時間内に各自船内の食堂に食べに行く(メニューは全員一緒)という方法だったと思いますが、船の揺れや慣れないフェリーの旅のためか、あまり朝食を食べている人は多くなかったようです。
8時半から9時頃に志布志港に到着し、私にとっては初の九州への上陸となりました。
ここからは最終日の福岡空港到着まで、基本的にはすべてバスでの移動となります。
まず初日は志布志港から宮崎県串間市の都井岬に移動し、御崎馬(みさきうま)という国の天然記念物に指定されている日本在来馬とふれ合った後、日南海岸などを観光してその日は日南海岸のホテルに宿泊しました。
翌日の3日目はバスで鹿児島へ移動し、島津家別邸「仙巌園や城山などを巡り鹿児島市内に宿泊。
さらに翌日は桜島にも足を延ばし、もちろん桜島へのフェリーにも往復乗船しました。
鹿児島市内の移動中には2回ほど鹿児島市電と交差したり併走したりする場面もありました。現在のように低床車などが幅を利かす前でしたが、前日はほぼ鉄道との接点のない一日だったので、鉄道好き的には楽しい一瞬でした。
桜島観光の後は熊本への移動です。どのようなルートで熊本へ向かったのかは記憶にありませんが、阿蘇山に近い地域も通ったような記憶はあります。
この日は熊本での見学などはなく、おそらく熊本市内のホテルにまっすぐ向かい宿泊となったと思われます。

次回は修学旅行後半の思い出です。

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【乗り物中心】高校修学旅行の思い出② バス待ち中にも鉄分補給&フェリー乗船 [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。
30念前の九州への修学旅行の思い出の続きです。

東京駅から新幹線0系「ひかり」で新大阪駅に到着した私たちは、ここから貸し切りバスで大阪南港へ向かい、その夜の志布志港行きのフェリーに乗船することになっていました。
新大阪駅から大阪南港へは大阪市営地下鉄(現 大阪メトロ)の御堂筋線・四つ橋線・ニュートラムを乗り継ぐコースでもいけますが、400人近い高校生が都心の地下鉄や輸送力の小さな新交通システムの車内になだれ込むのはさすがに無理があるというものでしょう。個人的にはニュートラムには乗りたかったですが(笑)

新幹線を降りた私たちは、駅の外に出て団体専用の大型バスの駐車場に移動し、大阪南港まで乗る貸切バスがやってくるのをクラスごとに並んで待ちます。
特にこれといってすることもなくぼ~っと立っていると、突然駐車場の向こうの方に黄色い電車がやってきました。突然のことで驚きましたが、どうやら団体用駐車場のそばを新大阪駅近くにある宮原客車区や宮原電車区等(現 網干総合車両所宮原支所)へ向かう回送線が通っているようで、やってきたのも当時JR宝塚線(福知山線)の大阪―新三田間で運用されていた宮原電車区(当時)のカナリアイエロー色の103系だったというわけです。
関東ではこの時代も中央・総武緩行線や南武線で大活躍していたカナリア色の103系も、関西で見られるのはJR宝塚線の車両だけで、貴重な存在でした。そういう車両を見ることができたということで、退屈なバス待ちの時間が急に楽しい時間に変わりました。
周りでは「何で大阪に総武線が走ってるの?」(私たちのような西武沿線在住の人にとっては、黄色い電車といえば西武線か総武線というイメージが強いので)という言葉も聞こえてきて、事情を知っている私にとってはそんな反応も面白かったのを思い出します。
103系が走り去って2~3分ほどすると、103系とは逆方向へまた列車が通過しました。この時やってきたのは、岡山をベースに活躍していた12系客車のジョイフルトレイン「ゆうゆうサロン」の専用機として、当時の客車と同色の茶色ベースに金色帯という姿になっていたEF65 123号機でした。客車のない単機回送だったことからすると、おそらく北陸方面へ向かう客車を大阪駅まで牽引し、そこから先を担当するEF81に牽引気を交代後に単機で宮原運転所へ引き上げるところだったのでしょう。
このEF65 123号機もそうそう頻繁に関東で見られる機関車ではなかっただけに、遭遇の嬉しさという点では103系以上です。
こちらにも周りからは「あれ?この電車1両だけで走ってる!」(おそらく遠目には電車と機関車の見分けがつきにくかったのかもしれません)などの反応が聞こえてきます。

結局、駐車場でのバス待ちの時間は10分ほどだったと思いますが、その間に新幹線車内に続く素晴らしい「鉄分補給」の時間が過ごせたというのは大きな思い出になりました。
残念だったのは、せっかくの貴重な出会いを全く撮影していないこと。確かこの修学旅行にはカメラの持参も許可されていたような記憶がありますが、あまりに突然のことでカメラを取り出す間がなかったのが正直なところです。カナリアイエローの103系もEF65 123号機ももうすでに過去の車両となってしまっただけに、この時たとえ下手でも撮影できていれば・・・と悔やまれます。

さて、まだ大阪にいるのにテンション高めになっている中、貸切バスで大阪南港へ向かいます。新大阪駅から40~50分くらい(正確なところは覚えていませんが)で大阪南港のフェリーターミナルに到着し、今夜の宿でもある志布志港行きのフェリーに乗船です。
これも正確な時刻は忘れてしまいましたが、18~19時台くらいに大阪南港を出港し、私にとっては初めての長距離フェリーの旅が始まりました。
席はカーペット時期の桟敷席(?)で、ここにクラスや班ごとといった単位で雑魚寝する形でした。
夕食にどんなものを食べたのかは覚えていませんが、おそらく船内の食堂をほぼ貸切状態にして食べたのだと思われます。
夜行フェリーに乗ったからにはぜひデッキに出て外の空気を吸ったり、夜の海や星空などを眺めてみたくなるものですが、この時にはそういった記憶がありません。先生方からデッキに出ることを禁じられていたのか、それともまだ寒い3月ということでデッキに出なかっただけなのかは、今となっては定かではありませんが・・・
そんなこんなで、まだ九州に着いていないのに私としてはかなり濃密な思い出の残った修学旅行初日も終わり、カーペットの上で就寝となりました。

次回は九州上陸編です。

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【乗り物中心】高校修学旅行の思い出① 最初で最後の「0系ひかり」 [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:修学旅行どこ行った?

修学旅行かあ…
最後に行った高校の修学旅行ですらもう30年前の事なので、もうすっかり懐かしい思い出という感じです。

で、行先は…
小学校が日光、中学校が佐渡島、高校が九州でした。

日光は当時の関東の公立小学校の修学旅行先としてはおそらく定番だったであろう地域だし、九州も修学旅行先の大定番ですが、今でも謎なのがなぜ佐渡島に行ったのかということ。
私が修学旅行で佐渡に行ったと言うとほぼ全員に不思議がられます。
関東の中学校の修学旅行先の定番はおそらく京都・奈良あたりなんでしょうけど、どうしてその定番を外したのか・・・?
まあ、佐渡金山を見学したり島内の絶景スポットに行ったり、新潟港と佐渡の両津港の間は片道が普通のフェリー、もう片道はジェットフォイルに乗れたりで、結構楽しかったんですけどね。

そして、今回主に話題にするのは高校の修学旅行の話です。

「平成」が始まってちょうど2か月経った平成元年3月上旬から中旬にかけて、当時高校2年生だった私は、通っていた高校の修学旅行に参加し、初めて九州を訪れました。
正確な期間は記憶があいまいですが、修学旅行中にその年春のJRダイヤ改正(平成元年3月11日)当日を迎えたのは今も覚えています。
日程は5泊6日(うち船中1泊)で、新幹線と長距離フェリーを乗り継いで鹿児島県の志布志港から上陸して時計回りに九州をほぼ一周(ただし大分県には足を踏み入れず、佐賀県も通過するだけでした)し、福岡空港から飛行機で帰路につくというコースでした。
もちろん修学旅行ですから九州各地で見学などの思い出もいろいろできましたが、30年も前の話となるとやや記憶があやふやな部分も出てきてしまいました。
そこで、この修学旅行の思い出を、その時に乗った(または目撃した)乗り物を中心に4回シリーズで振り返ってみたいと思います。

私の通っていた高校は、埼玉県内の西武線某駅が最寄駅のため、修学旅行初日の朝、学校に集合した私達2年生は、その最寄駅からまずは西武線と山手線を乗り継いで東京駅へ向かいました。
私たちの学年は400人近く生徒がいるものの、おそらく山手線はもちろん西武線内でも貸切列車利用とはせず、クラス単位で2~3班に分かれて一般の定期列車に混乗する形をとったと思われます。
東京駅からは、東海道新幹線で新大阪へ向かいます。今も昔も、修学旅行で新幹線を利用する学校の中には修学旅行専用列車を利用する学校も多いようですが、私たちは通常の「ひかり」利用でした。
もちろんこの時代に「ひかり」を利用するとなれば100系乗車を期待しましたが(事実、私のほかにも同じように100系に乗れると期待していた人は多かったようです)、乗車したのは0系でした。
この時は少々残念な気持ちにもなりましたが、結果的には山陽新幹線区間も含め、この時が最初で最後の「0系ひかり」乗車となり、今にして思えば貴重な経験となりました。
乗車した「ひかり」(号数は忘れてしまいましたが)は12時台の発車だったので、「ひかり」に乗るからには食堂車を利用したい気満々ではありましたが、修学旅行中とあってはそうもいかず、自宅から持参した弁当で昼食となります。
弁当を食べた後は友達とおしゃべりしたり眠ったり、新大阪までの約3時間、各自それぞれ思い思いに過ごしていましたが、鉄道好きの私としては終始流れる車窓に釘付けで眠気を覚えることもありませんでした。
特に熱海以西は初の乗車となるので、見るものすべてが新鮮です。当日富士山がよく見えたという記憶はありませんが、それを補って余りあるのが、途中で出会った鉄道車両たちでした。
地点は思い出せませんが、静岡県内の東海道本線との並行(交差?)区間ではEF65一般形が牽引する貨物列車を目撃、名古屋付近では名鉄7000系「パノラマカー」や1000系「ぱのらまsuper」等の名鉄電車を短時間のうちに何編成も目撃できました。
京都駅では高架上から構内に留置中の東海道山陽線緩行のスカイブルーの201系を見て「いよいよ関西までやってきた」という感激に浸り、大山崎付近の阪急京都線との併走区間では期待通り阪急電車との擦れ違いを見ることも出来ました(期待していた当時の特急車6300系ではありませんでしたが)。
そんなこんなで興奮が収まらないまま「ひかり」は新大阪駅に到着しました。長い乗車で「付かれた~」とこぼしている人も周りにはいましたが、私にとっては本当にあっという間の3時間でした。まだ九州にも渡っていないのに、修学旅行の最初の思い出ができてラッキーな気分でした。
この後新大阪駅からは、貸切バスを利用して大阪南港へ移動し、志布志港行きの夜行フェリーに乗り継ぐことになりますが、その貸切バスに乗る前に、またしても鉄道好きの私を興奮させる光景に出会いました。
そのあたりはまた次回のきじで。

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黙っているより話しかけてくれた方が・・・ [ノンジャンル]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:タクシーのドライバーさんと話すことある?

私は ある 派

さすがにあまりべらべらとまくしたてられたりすればうっとうしくも感じられるだろうけれど、基本的に私はタクシードライバーさんと会話を楽しむのは好きです。
1人でタクシーに乗り、必要最低限のことしか話さないドライバーさんと2人キリで車の中で過ごすのは、個人的には退屈です。
それに対して、例えばその日の天気についてちょっとだけ話すだけでも車内の雰囲気はよくなるように感じるし、ドライバーさんの仕事の裏話や過去の面白いお客さんの話など、なかなか聞けない話を聞かせてくれるドライバーさんに当たると楽しいものです。
それに、遠くへ出かけてタクシーに乗った時に、私が遠来の客だとわかってくれてドライバーさんおすすめの観光地やお店などを教えてくれたりすれば、その街の印象までも大幅にアップするように思います。
あと、視覚障害者になって感じたのは、見えない(見えにくい)者にとって直接声に出してのコミュニケーションが大事だというのは、タクシーでも同じだということ。
料金のこととか、例えばタクシーを降りた場所から駅の入口はどの方向にあるとか、そういった情報を適切に伝えてくれるドライバーさんは本当にありがたいです。

ところで、ドライバーさんとタクシーの乗客の間の会話といえば、先日こんな記事がネットに出ていました。

タクシーの会話は必要?不要?「話さない運転手」賛否 タクシー会社あの手この手 (乗りものニュース)
https://trafficnews.jp/post/89058

「相談タクシー」とはなかなかいい規格ではないでしょうか。
タクシードライバーさんにはいろいろな職業経験や人生経験を積んでこられた方も多いでしょうから、いわば「密室」ともいえる車の中で、ドライバーさんだけに日々の愚痴や悩みを聞いてもらえれば、その後の気分もかなり違ったものになるかもしれません。
その一方で、通常はドライバー側から乗客に話しかけないようにと指導するのはちょっとどうかなとも思います。
確かにドライバーとの間で必要最小限の会話しかしなくても特に不便を感じない人や、車内では眠ったり静かに過ごしたい人もいるので、話しかけるドライバーとそうでないドライバーのどちらがタクシードライバーとして望ましい在り方なのか、これはどちらかに明確に決められる話ではないでしょうね。
私はやはり、ドライバーと乗客がどの程度のコミュニケーションを持つかについては、ドライバーやタクシー会社としてどうするかというよりも、個々の乗客の希望に沿う形にするのが一番のような気がしますが。

そういえば、タクシーの車内といえば、昔はたいていのタクシーでカーラジオが流れていた記憶がありますが、これも乗客を乗せている間は客が求めない限りカーラジオをかけてはならないという規定を設けている会社が結構あるという話も聞いたことがあります。これも静かに乗りたいという乗客のニーズを受けてのことかとは思いますが、一方でタクシーの中で初めてカーラジオを聴いたのがきっかけで、その後ラジオの面白さにハマったというエピソードを持つ人も結構いることを考えると、ラジオの楽しさを多くの人に再認識してもらうためにも、控えめな音量でよいのでカーラジオは流してもらえたら・・・と、ラジオ好きとしては思ってしまいます。
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日付指定できるならやっぱり [日々のあれこれ&つぶやき]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:タイムマシンがあったら行きたい年月日

もし日付指定でタイムマシンに乗れるなら行きたい日はたくさんありますが・・・
その中で一日だけ選ぶとすれば、48年前の今日、つまり1971年9月2日ですかね。
なぜなら、その日は私の生年月日だから。
この日の午前0時からのまる24時間、自分の誕生日がどんな一日だったのか、この目で(耳で)確認したい気持ちがあるし、何よりも自分の誕生の瞬間に立ち会ってみたいというのが一番の理由です。
私が生まれたのは深夜2時半頃だったようなので、無事誕生を見届けて夜が明けたら、街へ出て誕生日当日の街の空気に触れてみたいものです。
そして、誕生日当日のテレビやラジオでどんな番組が放送されていたのかも興味があるし、当時のCMも見てみたいです。
もちろん、その当時の国鉄・私鉄のいろいろな列車にも乗りたいし、誕生日時点では後に荒川線になる区間以外にもまだ一部の運転系統が健在だった都電にも乗りたいし、とにかくしたいことや体験したいことが多すぎて、果たして一日でこれだけの事ができるのやら気になりますが。
でも自分にとっては記念すべき日にタイムスリップし、そこからブログを大量更新!なんてことになったら面白いかも。
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馬場村塾 [視覚障碍者としてのあれこれ]

こんにちは、gonanaです。
珍しく昼間の更新です。
昨日私は、「馬場村塾」(ばばそんじゅく)という会の月例会に参加してきました。
この「馬場村塾」は、視覚障害当事者やその支援者同士が意見交換や情報交換を行う場として2015年4月に始まりました。おおむね月1回、主に東京都新宿区高田馬場周辺の会場で開催されます。
私は2017年に、この「馬場村塾」が主催する視覚障害者向けの商品やサービスを提供する企業や団体が集まるイベント「BABAふぇす 2017」を見に行ったことがあり、その時に「馬場村塾」の存在を知り、一度この会の月例会に参加してみたいと思っていましたがなかなか予定が合わなかったりして実現せず、今回が初参加となりました。
昨日の月例会は、いつもの高田馬場周辺ではなく、川崎市の小田急線向ヶ丘遊園駅近くにある、専修大学のサテライトキャンパスで行われ、約50名の人が参加しました。
開会後まずは私を含めた初参加の人などが自己紹介をしました。
その後は毎回一人、または一組のプレゼンターがその日のテーマに沿って1時間ほど講演をします。
昨日は「視覚障害とWebメディア 情報発信の可能性と課題」というテーマで、「Spotlite」というWebメディア(https://spot-lite.jp/)の発起人である高橋昌希さんという方がプレゼンターを務めました。
「Spotlite」は、視覚障害やその当事者に関する様々な事を広く社会に発信することを目的としたWebサイトで、私もよく閲覧しています。
この「Spotlite」を立ち上げた高橋さんが、サイトを立ち上げたきっかけや視覚障害についての情報発信の現状と課題、Webメディアの可能性などについていろいろと参考になる講演をしてくださいました。
私自身もこのブログや会社のブログで視覚障害者として感じることなどを記事にしており、また将来的には何らかの形で視覚障害者(またはいろいろな障害当事者)の目線で様々な情報を発信できるような仕事に携わりたいとも考えているので、高橋さんの公園は大いに刺激になるものでした。
講演の後は、参加者を交えて意見交換を行うディスカッションタイムとなりました。多くの参加者から発言のあった活発なディスカッションが展開され、このやり取りからもいろいろとヒントを得ることができました。
月例会が終わった時には、開会から約2時間半が経過していましたが、その長さをあまり感じないくらい、様々な「学び」を得ることができ、また機会があればぜひ参加したいと思いました。
講演とディスカッションタイムが終わり「馬場村塾」の月例会は中路目となりましたが、その後会場近くの店で高橋さんや参加者の多くが参加する懇親会が行われ、私も参加させていただきました。
先ほどまでの月例会とはまた違ったリラックスした雰囲気で、お酒や食事を楽しみながらいろいろな方と交流を深めることができました。このような場も、在宅勤務のため毎日のように外出するわけではない私にとってはいろいろな情報を得たり人脈を得たりする貴重な場となります。

今回「馬場村塾」月例会に初めて参加し、多くの貴重な「学び」を得ることができました。ここで学んだことを少しずつでもブログや将来の仕事に生かしていきたいと思います。

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