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長崎本線の「食パン電車」乗車の思い出 [その他鉄道ネタいろいろ]

こんにちは、gonanaです。
あと2か月余り後の9月23日の西九州新幹線(武雄温泉ー長崎間)の開業に伴って、博多ー長崎間の特急「かもめ」廃止と博多ー肥前鹿島間の特急「かささぎ」新設、さらに肥前浜ー長崎間が電化区間から非電化区間へと変わるなど、運転体型が大きく変わる長崎本線の肥前山口(9/23からは江北駅に改称)-長崎間。
長崎本線といえば特急「かもめ」やかつての「さくら」「あかつき」などのブルートレインの印象が強いですが、当然この区間にも普通列車は走っているわけで、その長崎本線と途中の肥前山口駅から分岐する佐世保線の普通列車で活躍していたのが、寝台電車から改造された近郊型電車715系0番台でした。

715系0番台は、昭和50年代に入って寝台特急の削減や昼行特急の485系化などによって余剰になってきていた寝台・座席両用電車の581・583系をローカル輸送に適した近郊形仕様に改造して1983年に九州地区に登場した電車で、同様な経緯と改造内容で仙台地区に同じ715系1000番台、北陸地区に419系がほぼ同じ時期に登場しました。
主な改造内容としては、車内では3段寝台の上段・中段を使用できないように折りたたんで格納した状態で封鎖し、下段を座席状態に変更、各車1カ所ずつだった乗降ドアを2カ所に増やし、洗面所を使用停止にしたり一部車両のトイレを閉鎖したりといったものでした。
そしてこの電車の印象を強いものにしていたのが、独特の前面形状を持つ先頭車でした。
もともと12~13両という長編成で運転することを前提に製造された581・583系を4両編成のローカル電車として運用するにあたっては運転室付きの車両が不足することになり、もともと運転室付き車だった車両に加えて中間車に運転室取り付け改造を施した車両が登場することになりました。
この運転室取り付けを行った車両は、塗装以外はほぼ特急形時代と同じ前面形状だったもともとの先頭車と異なり、流線形だったり傾斜がついたりしていない、通勤型電車のようなシンプルな前面形状のものとなりました。
改造種車の581・583系は3段寝台を車内に収めるために限度いっぱいまで車体の高さを高くしてあり、その車体形状は近郊形に改造した後もそのままだったため、改造で生まれた先頭車はその大きな車体断面が前面形状にも表れ、まるで食パンを包丁で切った時の断面のように見えることからこの715・419系は「食パン電車」などというあだ名で呼ばれることもありました。
さて、これらの寝台電車改造「食パン電車」は、いずれも私の住む関東からは離れた地域を走っているため、存在は知っていても乗る機会はなかなかありませんでしたが、このうちJR九州に引き継がれた715系0番台の引退が近づいているという話が鉄道雑誌に出ていたのをきっかけに、1997年の夏休みに鉄道旅で九州を訪れた折のある日、乗ってみることにしました。

その日は、前の晩宿泊していた博多駅近くのホテルを朝出発し、「かもめ」で9時過ぎに長崎駅に到着。
午前中は長崎電軌の路面電車を乗り歩きし、先日の記事でも話題にした眼鏡橋近くの喫茶店「きっちんせいじ」でトルコライスを食べて昼食としました。
この日は長崎駅近くのホテルに宿泊する予定でいましたが、実は前日まで午後はどのように行動するか決めていませんでした。
持参してきていた時刻表などをあれこれめくりながら考えた末、長崎駅を13時台(正確な時刻は忘れてしまいましたが)にに出る長崎本線肥前山口行き普通列車に715系が使われていることを知り、ちょうどいい時間帯と運転区間ということで乗りに行くことにしました。
まだ地上駅だった長崎駅に戻ってさっそく肥前山口行きの発車するホームへ行くとすでに715系が停車していました。
最も駅舎寄りに停車していた一方の先頭車クハ715形はもともと先頭車だった車両で、前面形状は塗装が変わり三角形の「特急シンボルマーク」がなくなっている他は特急型時代とあまり変化なさげに見えましたが、だからこそ白ベースに青帯の塗装に変わった姿は鉄道雑誌で見慣れていたとはいえ、やはりちょっと違和感がありました。

発車まで少し間があったのでついでに肥前山口寄り先頭車のクハ714形のところまでホームを歩いて向かいました。
このクハ714形は、中間車に運転室を取り付けて先頭車化した形式で、こちらもその前面形状は見慣れていたものの、いざ間近で見ると結構インパクトのあるものでした。
特急形時代のままの幅の狭い折り戸式の扉から乗り込んだ車内には、この車両が元寝台電車であったことを物語る痕跡がいろいろ色々見られました。
座席は扉付近がロングシート化されたほかは特急型時代の昼間の状態と同じボックスシートでした。
座席に座るとさすがは元寝台電車だけあって座り心地は最高で、幅も一般の車両のボックスシートより広いのでゆったりと座ることができました。
ただ、頭上に上・中段寝台を格納したカバーがそのまま残されているので何だか頭上がうっとうしく、また窓はサイズが小さく、開閉可能なように改造された窓は桟が視界の邪魔になるなどしているせいで、晴れている昼間なのに車内は暗く感じました。
さらに4両編成の車内を前から後ろまで歩いてみると、仕切り壁やその痕跡がいくつか残っていて客室が分割されている場所があったり、使用停止になった洗面台を撤去せずに板で覆っただけの場所や、複数あるうち1カ所を残してあとはそのまま使用停止にしただけのトイレなど、他ではなかなか見られない独特の車内の様子を見ることができました。
715系や419系がこのようにいろいろな意味で変わった電車になったのは、ひとえに国鉄末期の苦しい財政状況の中でできるだけ改造コストを抑えることが目的で、両形式はある意味末期の国鉄を象徴する車両とも言えます。

715系の肥前山口行は、(確か)定刻に長崎駅を発車。
途中の諫早駅あたりまでは各ボックスシートに1~2人くらい座っている感じの乗車率でしたが、そこから先は乗客も少なく、途中駅での乗降もほとんどなく車内はとても静か。
スピードの方は近郊形への改造にあたって足回りも近郊形仕様に改造されたためか比較的ゆったりとしていて、いかにも「鈍行列車」に乗っているという感じの舞ったりした空気が車内に流れていました。
有明海沿いを走る区間で車窓にくぎ付けになりながら、「かもめ」が通過する小駅にも止まりながらのんびりと走る715系には、何となく客車の鈍行で感じるようなゆったりした気分を感じることができました。

長崎駅を出てから2時間ほどで終点の肥前山口駅に到着。
改めてゆっくりホームから715系を眺めた後、「かもめ」で長崎駅へ戻りました。
九州へ鉄道旅に行った時に長崎本線に乗るときはほとんどの場合「かもめ」で移動することが多かったですが、のんびりと普通列車に揺られた後だと、普段よりも「かもめ」の速さを感じるという経験もすることになりました。

結局、JR九州の715系は私が乗車した翌年の1998年3月に引退しました。
改造後6~7年ほど使用して新車に置き換えることを想定して改造されたといわれる715・419系としては、その役倍の間稼働したのは想定外だったでしょう。(もっとも北陸地区で使われた419系はそれよりもさらに10年ほど長く使われましたが)
日々の運用では異例づくめの内容の改造車ゆえのいろいろな問題があり、あまり評判のいい車両ではなかったともいわれますが、個人的には座り心地のいい座席のせいもあって嫌いな車両ではなく、それなりに思い出深い車両です。
そして、これから大きく変化しようとしている長崎本線。
現状の姿のうちに乗りに行けるかどうかわかりませんが、久しぶりにいつかぜひ乗りに行きたいと思っています。
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贅沢な食事に縁がないもんで… [ノンジャンル]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:今、食事代として5000円持っているとしたら、何食べる?

5000円で食事…
これって一回の食事で使い切らないといけないんですかね?
何しろ一回(一食)5000円相当の食事をしたことなど、会社の飲み会の会費を除けばほとんどない(少なくとも自分の金では)ので、一回5000円ぐらいの食事にはどんなものがあるのか、ざっくりとしたイメージがあるだけなんですよね。
そんな、決してグルメとは言えない私のイメージで言えば、ちょうど今の時期ならうなぎですかね。
うなぎの値段が高騰しているという今(毎年「うなぎが高い」と言われている気もするけど)、果たして5000円で松竹梅どのレベルのうな重が食べられるものなのかわからないけれど、たまには通販やスーパーで買った「きざみ」でない本格的なうな重を専門店で食べたいもんです。
あとは天ぷらの盛り合わせとか寿司の盛り合わせとかですかね。
回転寿司で5000円分、高いネタから安いネタまであれこれ食べまくるのもいいかな。
回らない寿司屋に行って5000円分食べるのもたまには憧れるけれど、高級な寿司屋では果たして何カン食べられるやら…

うーん、とりあえずこれぐらいしか思い浮かばないなあ…
贅沢なコース料理にはなかなか縁がないけれど、せめて年に1~2回ぐらいは「自分へのご褒美」ではないけれどそれこそ5000円ぐらいで食べられるようなちょっと豪華な食事ができるくらいにはなりたいものです。
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そういえばテレカ、どこにしまったっけ? [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:公衆電話、使える?

もちろん使えますよ。何せ昭和の生まれなもんで(笑)
でも改めて思い出してみると、最後に公衆電話から電話をかけたのが一体いつだったのかが思い出せないほど、公衆電話ともすっかりご無沙汰になっています。
振り返ってみると、やはり私も公衆電話はよく使ってましたね。
公衆電話が10円玉か100円玉でしか使えなかった小中学生当時は、行動範囲が広くないこともあって公衆電話のお世話になることも少なかったけれど、高校生になって行動範囲も広がり、さらにテレホンカードも登場するようになると、不思議なもので出かけた先から気軽に自宅へ電話をかけることも多くなりました。
さらに修学旅行やら大学のゼミ・サークルの合宿や旅行、そして鉄道旅で遠くへ出かけると、そこで記念にテレホンカードを何枚も買ったり、地方の面白い電話ボックスに入って電話をかけたりしたのもいい思い出です。

先日のKDDIの通信障害で久しぶりに公衆電話が注目されましたが、やっぱり若い人は公衆電話のかけ方を知らなかったり、そもそも公衆電話自体見たことがなかったりする人、結構多いんですね。
まあ物心ついた時にはすでに携帯があったという世代が社会人となっているくらいなのだから当然といえば当然ですが。
災害時や今回のような通信障害の時などに備えて公衆電話の使い方を練習したり、自分の行動範囲にある公衆電話の位置を把握しておくことが重要ということも言われますが、そもそも公衆電話の絶対数が少なくなっているので、すぐに使える場所に公衆電話がないのでどうしようもないということもかなりの割合でありそうです。
また、コレクション目的以外でテレホンカードがどこかで手に入るものなのかわからないので、いざ公衆電話ということになると硬貨でかけることになりそうですが、これもキャッシュレス時代で小銭を持っていない人も多く、公衆電話を使うにも今はそれなりにハードルはありそうです。
そうなると、危機対応のためにも公衆電話の数を増やしたり、テレカを再度発売するようにしたり、交通系ICカードで公衆電話を使えるようにすることも考えられますが、これらに関する費用と公衆電話の利用実績のバランスを考えるとかなり難しそうな気が…

そういえば、携帯を持ち始めた頃、使用済み・未使用合わせて100枚弱ぐらい持っていたテレカ、今も家のどこかに眠っているはずだけど、これって今でも使おうと思えば使えるんですかね?
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電車の色で一喜一憂した時代 [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:「若い人には信じられないだろうなあ」という話

ここ数日は多少はましな感じになりましたが、先週はとにかく暑かった!
こんな時に改めて痛感するのが、暑い日の冷房や冷たい食べ物・飲み物がいかにありがたいものであるかということ。
普段はこれらのものに対して特別なありがたみを意識することもないけれど、40℃にもなろうかというようなあの暑さの中では、節電も求められているし冷たいもののとり過ぎは体によくないとは言っても、やはり冷房とアイスと冷たい飲み物の誘惑には勝てません。
まあさすがに若い頃と違って、かなり低めに設定していた冷房の温度設定も昔よりやや高めになってきましたし、一日に何度もガリガリ君を食べるなんてこともしなくなりましたけどね。

そういえば、今よりは暑さも過激なものではなかったとされる私の幼少期から小学生ぐらいの時代、約40~45年前の方が、むしろ今よりも冷房がよく効いているとか、冷たい食べ物・飲み物が食べられる(飲める)ことへのありがたみを感じる場面が多かった気がします。
暑い外で歩いたり自転車に乗ったりした後、冷房がキンキンに効いた店や公共施設などに入るとほっとするものを感じたし、かき氷やアイス、サイダーや冷水器の水などを飲むと生き返ったような気分になったものでした。
そして、ごく一部の地域を除いては今や冷房があることが当たり前の鉄道車両も、あの頃は国鉄・私鉄とも本線格の路線でさえ非冷房車が普通に走走っていました。
そして毎年5~6月になるとテレビのニュースや新聞で国電各線や大手私鉄各社の冷房化率が報じられるのも当時ならではの高齢行事(?)でした。
そんな時代は、電車に乗る時も乗る電車が冷房車であるかどうかは重要でした。
もちろん、私の自宅付近を走る西武線でもその状況は同じでしたが、西武の場合はやって来た電車の色を見て一喜一憂するという状況が、1980年代中盤頃までありました。
それは、冷房車が特急用の5000系を別にすれば、すべて現在も西武の電車のイメージカラーとして定着している黄色塗装だったからで、暑い日に遠くから乗ろうとする電車が見えてきた時に黄色い車体が見えると喜んだものでした。
ただしこれにはトラップもありました。1969年に登場した最初の「黄色い電車」である101系の初期車には、非冷房で製造されたままの状態の車両と新製時からの冷房車、さらに非冷房車を冷房化改造したものが混在しており、非冷房の101系の冷房改造が完了する1980年代中頃までは「黄色い電車」でも非冷房でがっかり…というケースはままありました。

あの頃の西武沿線では、赤とベージュの「赤電」は古くて冷房のない車両、黄色い電車は新しくて運がよければ冷房車、という共通認識が鉄道に詳しくない人々の間にも広がっていたのかもしれません。
あれから40年の間、「黄色い電車」は特急車両とはまた違った西武鉄道のイメージとしてすっかり定着した感がありますが、現実には6000系に始まるステンレス・アルミ者の台頭で続々と量数を減らし、近い将来にはかつての「赤電」がそうであったように、「黄色い電車」もその活躍した時代を知っているかどうかで世代が分かるような存在になるのでしょうか…

おっと、暑さの話をしていたつもりがついつい「鉄」話になってしまいました(笑)
さて、6月末からこんな暑さなので、いったい今年の夏はどうなることやら…
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やっぱり今日は [ノンジャンル]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:数字の並びって気になる?

数学は大の苦手だけど、これも鉄道好きのなせる業なのか数字自体は嫌いではなく、列車に乗るときや鉄道写真を見る時などはついつい車両番号をチェックしてしまう癖が幼い頃からついていましたし、電車に乗るときに紙の切符を買った時にも切符の券面に印刷されている4桁の番号を見るのも習慣になっていました。
そんな中で、例えば1111とか5555などといった「ぞろ目」の番号に遭遇したり、「1234」や「3210」といった並びの番号を見たりすると何だかその日はいいことがありそうな気がしてしまいます。
そして、その中でもやっぱり「7」の並びには特別なものを感じてしまいます。
私はスロットは全くやりませんが、幼い頃から「777」はラッキーな数字の並びという刷り込みがあったせいかもしれません。
ということで、この記事も下に表示されている通りの時間にアップします。
まあ、この時間にアップした記事だからといって何か特別なことがあるわけではないですが、気持ちだけでも今日もラッキー7にあやかってポジティブに行きたいものです。
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やりたいこと、見たいものが多すぎて(笑) [ノンジャンル]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:タイムマシンで未来(過去)に行ったらしたい事

どうも未来に希望や期待が抱きにくいこのご時世なので、タイムマシンで行きたいのはもっぱら過去です。
江戸時代や戦国時代あたりにも興味はありますが、一番行きたいのは昭和後半の昭和30~50年代です。
この時代は今よりも日本に勢いがあり、それを体感したい思いもありますが、何よりもこの時代は見たいものや体験したい事が他の時代にもまして多いのが行きたい理由です。
そんな昭和後半の時代に行ったらやりたいのは、当時のテレビやラジオ、映画などのカルチャーにどっぷりハマったり、その時代に売られていた食品や飲み物を味わったり、当時のいろいろな街に出かけて街歩きをしたり、とにかく見たい物ややりたい事が多すぎて困ってしまいます(笑)
そして、個人的なことでは自分自身の誕生に立ち会ったり、子供の頃の自分に会いに行ったりといったこともしてみたいです。

でも、それにもましてしたいのは、何といってもこの時代の鉄道に飽きるまで乗りまくること。
この時代は、スピードや快適性、便利さという点では現代にはとてもかなわないけれど、鉄道旅の面白さや旅情、鉄道車両や周辺の施設などの興味深さという点では、国鉄も私鉄も昭和後半の時代の方が上という印象があります。
そして、今は廃止されてしまった各地のローカル線や中小私鉄、路面電車などにも乗りまくりたいし、その他にも今はなくなってしまった鉄道に関するいろいろなカルチャーにもどんどん触れてみたいです。

タイムマシンで行った先の時代にどのくらい長く滞在できるのかわかりませんが、もし自分の滞在したい長さだけいられるなら、とにかく日本が一番元気だったかもしれないあの時代ならではの楽しい体験や見分を思い切りしたいものです。
さて、私が生きている間にタイムマシンて実現するんですかね?
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たまには船旅もしたいなあ~ [ノンジャンル]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:船旅の思い出

鉄道好きの私ですが、思い出してみるとフェリーや緩行線などに乗った思い出は案外残っています。
一番古い船旅の記憶は、まだ小学校低学年の頃に祖父と一緒に乗った、三浦半島の久里浜と房総半島の金谷港を結ぶ東京湾フェリーです。
祖父とともに鋸山に登った時に乗りましたが、当時はそれほど船に興味がなかったこともあり、デッキから眺める東京湾の景色は素晴らしかったけれど船旅そのものをどれだけ楽しめたかはよくわかりません。
でも、東京湾アクアラインがある今でも東京湾フェリーが生き残っているということはやはりそれ相応の魅力があるということだろうと思いますし、今の私ならそれを感じることはできると思うので、機会があれば40年ぶりに乗ってみたいです。

その後は、中学の修学旅行で乗った新潟港と佐渡の両津港間のフェリーとジェットフォイル、高校の修学旅行で乗った大阪南港ー志布志間や天草ー島原間のフェリーの思い出が特に心に残っているほか、船旅というには距離が短いけれど箱根の芦ノ湖の遊覧船や横須賀港から猿島へのフェリー、富山進行で分断された地域を結ぶ富山県営の渡船などにも乗ったことがあります。
一方で、青函連絡船や宇高連絡線といった鉄道連絡線にはついに乗る機会に恵まれなかったのは、鉄道ファン的には悔やまれる思い出です。(高松港ー宇野港間に関しては、別のフェリー会社の船に乗ったことはありますが)
その他、これは私自身が載った思い出ではありませんが、新卒で入社した会社は東京の竹芝桟橋のすぐ隣に勤務する本社の入るビルがあったため、特に夏休みにはちょうど退勤時間とどこかの島からのフェリーの到着時刻が重なることが多く、いかにも伊豆諸島での休日を楽しんできたという感じの日焼けした人たちに混じって会社から浜松町駅へ向かうのが毎年の恒例だったのも、今となってはいい思い出です。

これまでの私は、特に長距離フェリーの発着する港が必ずしも車を持たない者にとってアクセスが便利とは言い難い場所にあることが多いせいもあり、あまり積極的に旅で利用しようという考えはありませんでした。
しかし、九州や北海道への夜行列車が全滅し、かといって新幹線や在来線を乗り継いでの昼間の移動も乗り換えの手間などがあることを考えると、これからは九州や北海道あたりへ鉄道旅などに出かけるときは、日程に余裕があれば長距離フェリーの利用も大いに選択肢になる気がします。
最近の長距離フェリーは客室も個室の割合が増えるなどかなりグレードアップしているようなので、たまにはゆっくりと船旅を楽しみながら遠くへ出かけるのもいいかな、なんて思ったりしています。
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復活して欲しいものは作ってしまえ! [ノンジャンル]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:TVのプロデューサーになったら、どんなものを撮りたい?

正直私にはテレビ番組のプロデューサーのようなクリエイティブな能力は相当欠乏していると思うし、今の世の中ではテレビよりYoutubeなどの動画配信の方がやれる事の幅も広そうな気はしますが…
それをとりあえず置いておいて、テレビでどんな番組を作るか…
どうせやるなら、私がずっと復活してほしいと思っている番組を自らの手で復活させてみたいです。
具体的に言えば、私が大好きだった1980~90年代のバラエティーのような番組がいいですね。
もちろん今の時代に当時と同じような番組企画はできないだろうけれど、今のいろいろな基準はクリアしつつも、番組全体に流れるエンターテインメントとしての精神はあの頃のバラエティーのそれをしっかり受け継いだものにしたいです。
すっかりテレビが昔のような華やかなメディアではなくなり、世の中的にも何だか気が重い毎日だからこそ、あの頃のように何も考えずに大爆笑できるような番組は必要だと思います。

それを踏まえて言うなら、プロデューサーにとして今の気分でやりたい番組は、フジテレビの「27時間テレビ」のような番組です。
数年前まで、毎年ちょうど今ぐらいの時期になると「27時間テレビ」の放送日が楽しみでした。前身の「テレビ夢列島」も含め、とにかく夏休みのスタートの時期にふさわしい、文化祭や学園祭のように楽しいテレビ界の夏祭りといった感じの番組でした。
末期の数回こそつまらなくて最初から見なかったり途中で見るのをやめたりしましたが、それ以外の年はほぼ毎年録画も駆使して最初から最後まで見るほど好きでした。
今となっては「27時間テレビ」ほど長尺の番組がどれほど受けるかはわからないけれど、例えば毎年夏休みに朝9時ぐらいから夜0時ぐらいまでの間いろいろなジャンルのタレントや芸人、アーティスト、アナウンサーなどが入れ代わり立ち代わり出演し、それぞれの得意分野で盛り上げる「ふぇす」のような番組が放送されるといったことは合っていいと思うし、もし私にテレビ番組をプロデュースする能力があったとしたらぜひそういう番組流行りたいですね。
あと、その番組を作ることができるならぜひともやりたいのが、全国のネット局大綱の企画です。
「27時間テレビ」や「テレビ夢列島」ではほぼ毎回、全国のネット局が○×クイズやバスケのフリースロー、三輪車レースなど、年ごとに違ういろいろな方法で競う企画が行われていて、私はこれが毎回楽しみでした。
なので私が番組を作るならそのような企画はぜひ取り入れたいし、出演するのも各地の一般の人やご当地タレント、各ネット局のアナウンサーといった、全国的な知名度はないけれどとにかく面白い人がいいですね。

昔の「27時間テレビ」の企画の中には今となってはもう再現できないようなものもあるけれど、あの番組の楽しさや盛り上がりは今の時代に合った形でもきっと実現できると思うので、ぜひ何らかの形で復活させてほしいですし、もし自分がそれに携われることがあるとしたら最高かもしれませんね。
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茶道を習っているのかお菓子をもらいに来ているのか(笑) [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:学生の時の変わった授業

私の通っていた高校は私立ということもあり、変わったというか特徴のある授業がいくつかありました。
一つは、毎週土曜日にあった「土曜講座」という時間です。
私が高校生だった頃はまだ土曜日も学校がありましたが、私のいた高校では土曜日は通常の授業(現代文とか数学とか)は行わず、この「土曜講座」と全校集会またはロングホームルームだけで午前中に終わる(もちろん午後は部活がありますが)時間割になっていました。
「土曜講座」は、10~15個くらいの講座テーマから自分の興味のあるテーマを4月の段階で選んで受講する講座で、受けたい講座がなければ受講しないことも可能でした。
講座のテーマには受験対策や授業の補修的な内容のほか、趣味の領域に近いテーマのものもありました。
そして、私が1年生の時に受講していた講座のテーマが「写真」でした。
このテーマを選んだ理由は、シンプルに「楽しそうだから」それだけでした(笑)
「土曜講座」の講師は、私の通う高校の先生のほか、外部から招へいされた講師の先生も数名いました。
私の受講することになった写真講座の講師の先生は、フリーの報道カメラマンのUさんという方で、当時は確かOECD(経済協力開発機構)から委託を受けて様々なOECDの会合や活動を取材してOECDの公式資料での情報発信やメディアへの発表などに携わっていると話していた記憶があります。

さてこの写真講座、講座が始まってみると受講者は私と同学年の男子1人だけという小世帯でした。
写真講座とはいっても、どこかへ出かけて撮影技術を学んだり、暗室での現像作業を体験したりなどといったことはなく、講師のU先生や仲間のカメラマンさんの作品を見ながら撮影時の裏話を聞いたり、それぞれの写真を撮影した時に用いたテクニックを解説してくれたりというのが中心でした。
U先生が毎回見せてくださる写真には、いろいろな国の元首や大臣などのスナップや、国際会議等の会場や周辺の写真などなかなか学校の教室では見られないような貴重な写真のほか、何気ない日常の一枚といった感じの風景写真など、いろいろなものがありました。
また講座がU先生を含め3人しか出席者がいないこともあり、合間にはいろいろと雑談を交わす場面もありました。その中で私が鉄道が好きで鉄道写真も撮っていると話したのを受けて、U先生が私の撮影した写真を講評してくださったこともありました。
さらに、当時減益からの引退後に保存場所が決まるまで一時的に小手指の車両基地構内に留置されていた西武の輸入旧型電気機関車をU先生が撮影した写真も見せてくださり、後日その写真とU先生執筆の記事がある鉄道雑誌に掲載された時には驚いたものです。
こんな楽しい写真講座も、やはり受講者がたった2名では…ということからか次の年度は開設されず、私は別の講座を受講することになりましたが、ある意味学校で堂々と趣味とつながりのある活動ができたのはいい思い出です。

もう一つは、茶道の授業です。
私の通っていた高校の創立者である当時の校長の方針で、学校の敷地内に小さな茶室が設けられていて、そこで2・3年生の時に茶道の授業がありました。
茶道の先生は確か校長の知り合いの茶道化の先生で、流派は裏千家だったか表千家だったか忘れてしまいましたが、茶室への出入りのしかたから始まり、お茶の立て方やその他の所作まで、結構本格的に教えてくださっていたと思います。
ただ…、正直言って茶道の授業のことはそれほど記憶には残っていません。もちろん茶室ではいろいろな所作をできるだけ教えてもらった通りできるようにしてはいましたが、それよりも楽しみだったのがお茶菓子として先生が用意してくださった和菓子でした。
お菓子はまんじゅうやだんご、ようかんなど季節に合った和菓子が毎回出ていて、月1回(茶室が小さいため、50人弱いるクラスの全員が茶室に入ることができないため、クラスを4つのグループに分け1グループずつ順繰りに茶道の授業を受けるようになっていました)茶道の授業の時には「今度のお菓子は何だろう」という本末転倒な楽しみがありました。
それは私以外の多くの同級生も同じだったらしく、茶道の授業の跡の休み時間には、教室に持ち帰ったお菓子を私も含め多くの同級生が食べていました。
確か学校にお菓子を持ち込むことは禁止されていたと思いますが、さすがに授業で出たものは対象外とばかり、堂々とおやつタイムを楽しんでいたのも懐かしい思い出です。
今思えば、あの授業の目的は茶道を学ぶことだったのか、それともお茶菓子でのおやつだったのか、かなりあやふやな感じですが(笑)
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泳げないけど… [いろんな思い出]

こんにちは、gonanaです。

本日のお題:水泳の授業の思い出

もう、これだけ暑い日が続くと、今すぐにでも海かプールに飛び込みたい気分ですね。
そういえばそろそろ学校のプールの授業って始まってるんですかね。
この暑さだとプールに入るのは気持ちがいいイメージがあるけれど、あまりに暑いと熱中症のリスクからプールは中止ということにもなるから、難しいですね。

それはそうと、私のプールの授業の思い出。
私は子供の頃からほとんど泳げず、幼い時に通わされていたスイミングスクールも嫌で嫌でしかたがなかったけれど、学校のプールの授業はそれほど嫌いではありませんでした。
もちろん、泳げないことについてのコンプレックスはあったし、水着に着替えたり教室からプールに移動しなければならないことが面倒だったりはしたけれど、だからといってプールの授業が苦手というほどではなかったような気がします。
それはおそらく、毎年夏になると近所にある市民プールに何回も通ったり、としまえんのプールに出かけたりして遊んでいるうちにプールや水泳に対する苦手意識が薄まっていたことも理由でしょうし、泳げない生徒に対してスパルタ的に指導するような先生にほとんど当たらなかったことも理由かもしれません。
あと、特に小学生の時には授業の途中に「自由時間」と称してプールの中で自由に泳いだり潜ったりして遊べる時間があったことや、教室にクーラーがつくなど夢のまた夢だった時代に、授業の名のもとに暑さをしのぐことのできる絶好のチャンスだったことも、プールの授業がそこそこ楽しかった理由だと思います。
そして、夏休み中にプールの授業のために登校するのも、市民プールに行くことに慣れていたせいか、それほど苦にはならなかった記憶があります。

そういえば、現時点で最後にプールに入ったのも、高校3年生の時の体育のプールの授業だったっけ。
あれからもう30年以上の時が経ち、多分昔以上に泳げなくなっているはずだけど、健康のためにもどこかのスポーツクラブに入って、かなり久しぶりに水泳をしてみるのも悪くはないですかね。
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